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冬期は室内の窓際に、その後ベランダに出しっぱなしにしていた胡蝶蘭がたくさんの花をつけた。過去日記によれば、2022年に妻が貰ってきた4鉢のうちの1つで、今年が3回目の開花となる。 |
【連載】『3つの自己』の再考(2)現実世界との接触を通じた自己体験 昨日の続き。 ウィキペディアでは『自己』は、 ●自己(じこ、英: self)とは、心理学において自分によって経験または意識される自分自身をいう。 と大ざっぱに定義されているが、研究分野や立場によって、捉え方は大きく異なっている。リンク先からいくつか抜粋すると以下のようになる。
さて、「自己を感じる」最初の場面として挙げられるのは、現実世界との接触である。そんななかで、
このうち1.は、オペラント行動そのものであると言える。自分が走れば別の環境に移動できる、自分がシャベルで掘れば穴や山ができる、自分が木の枝を折れば、その枝は棒になる、...といったように、自分が行動すればその行動の量や質に応じて環境が変わっていく。いっぽう行動しなければ何も変わらない。そういう体験を通じて、何となく「環境を変えることのできる独立した存在」としての自己を体験できる可能性があるように思う。 もっとも、オペラント行動は人間以外の動物(←少なくとも脊椎動物以上)でも普通に見られる行動である。かといって動物たちが皆「自己」を体験しているとは思われない。おそらく「自分は環境世界の一部ではなく、環境から独立した別の存在かもしれない」と感じるためには人間特有の言語行動が関与しているものと思われる。 もう1つ、オペラント行動を続けているからといって常に「自己」を体験し続けていることにはならない。「我を忘れる」と言われるように、特定の行動に没頭している時はむしろ「自己」は消えているかもしれない。電車の運転士が時刻表や信号に合わせてスピードを調整している場合、あるいは駐車場の整理員が車の次々と出入りする状況に応じて適切に指示をだしている場合などは、「自己」を感じる余裕は無いかもしれない。もしかすると、オペラント行動を続けていること自体は自己体験ではない。オペラント行動を続けている最中に気が散って、自分がいま行動していることについて雑念が生じた時にだけ「自己」が感じられるのかもしれない。 上掲の2.の「自ら行動することで環境世界の変化に抗うことができる」というのは、例えば川の流れに逆らって上流方向に向かってボートを漕ぐというような体験である。あるいは、動く歩道の上を逆方向に歩くような場合も当てはまる。いずれも、自ら行動することで、一時的に環境変化をくい止めることができる。もっとも、外界の変化に抗う行動(もしくは環境を変化させる行動)自体は、人間以外の動物でも自発されている。人間だけが恣意性を実感している(と、推測される)のは、もろもろの行動を「自分のやった行動」として言語的にラベルづけしているためだろう。 上記の1.や2.のほか、旅行などを通じて新たな環境世界に身を置くことも、「そこに自分が居る」という感覚をもたらす。他の人が撮った写真や動画がいくらリアルであっても、この感覚には到達できない。 以上に述べた「自己感」は、ACTで言う『プロセスとしての自己』の一部かもしれない。但し、「我を忘れる」というように、オペラント行動に没頭すればするほど自己を感じるというものではない。また、留意しなければならないのは、我々はふつう、環境により適応的になるように、強化されながら行動しているという点である。環境世界からの独立性をわざわざ確認したところであまりメリットは得られない。それよりも、精一杯行動し、それに見合った成果を獲得できている時のほうが、「自分はいま生きている」という充実感、自己効力感を実感できるのかもしれない。 不定期ながら次回に続く。 |