じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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冬期は室内の窓際に、その後ベランダに出しっぱなしにしていた胡蝶蘭がたくさんの花をつけた。過去日記によれば、2022年に妻が貰ってきた4鉢のうちの1つで、今年が3回目の開花となる。


2024年8月23日(金)




【連載】『3つの自己』の再考(2)現実世界との接触を通じた自己体験

 昨日の続き。
 ウィキペディアでは『自己』は、

自己(じこ、英: self)とは、心理学において自分によって経験または意識される自分自身をいう。

と大ざっぱに定義されているが、研究分野や立場によって、捉え方は大きく異なっている。リンク先からいくつか抜粋すると以下のようになる。
  1. 主体としての自己はあらゆる行動や思考の原点であるが、客体的な自己は物質的自己、精神的自己、社会的自己の3つから構成される。カレン・ホーナイは「自己」を現実にいる人間の心理的かつ身体的な総体としての現実的自己、さらに潜在的な可能性を持つ実在的自己、さらに理想化された自己の3つに分けており、神経症が理想化された自己によって実在的自己を見失った状態であると考える。
  2. 人間にとって自己は成長とともに獲得するものである。社会心理学の自己過程論によれば、幼児期においては自己意識は持たないが、鏡に映し出された自身の姿などを知覚することによる自覚事態、自分という存在の概念化による自己概念の獲得、自己概念の評価的側面である自尊心の獲得、そして自己の存在を他者に示す自己開示や自己呈示の実施などを経て自己を段階的に発展させる。
  3. 自己の内容は複雑であり、内省を行ったとしても行動や感情の理由がわからない場合もある。これは内省の合理性や論理性、また内省によって動員される経験的知識や文化的背景が思考に強く影響するために因果関係が正確とは限らないためである。ベムの自己知覚理論は自分のことは自分がもっともよく知っているとする常識を否定し、自己の知覚と他者の知覚は基本的に変わらないことを示した理論である。
  4. 言語面からの「自己 (self)」の研究も進んでおり、認知言語学とその隣接諸科学の複合的観点から、言語面に見るselfの正体を明らかにしている。
  5. 精神分析学によれば、自己という概念は「私」に近い。しかし正確にいえば「自己イメージ」だとされている。自己は幼少期における母子環境などを通して形成される。主に母親という他者との関係で自己という自分の存在を明確に学んでいくのである。良い母子環境があれば自己イメージは現実と呼応したものになる。対象関係論はこの自己イメージの歪みにより精神病理が発生することを見出している。
  6. 自己心理学では、自己は心的構造の上部構造として意識に近いものだと考えられている。広義でいえば「個人の心理的中心」であり「個人が体験する主観世界」を意味する。ほぼ「私」という感覚に近いものである。そして自己は主に感情 (feeling) や情動 (emotion/affect) などによって構成されるものである。
  7. 臨床心理学では自己という観念はどちらかというと、それが存在するという前提で語られている。私たちは自己を「考えずとも誰でも持っている」からである。故に科学的な観察アプローチに則って自己を考察するとなると困難が出てくる。何故ならば「自己」は個人が主観的に感じられるものであるが、自分とは全く違う他人の自己は確認する術がないからである。このことからカウンセリングなどでは、自己という概念は最初から人間に存在する心の中心という前提として捉えられている。現在でも正確な定義は論者によって様々で、臨床の見地からすれば今でも曖昧なままである。
 上掲のように『自己』については様々な捉え方があるが、私自身は、最初から「自己は存在している」という前提を作ることには賛成できない。そうした前提は置かず、まずは「どんな場面で自己を体験できるのか」を経験的に明らかにしていくことが肝要ではないかと思っている。

 さて、「自己を感じる」最初の場面として挙げられるのは、現実世界との接触である。そんななかで、
  1. 自ら行動することで環境世界を変えることができる。
  2. 自ら行動することで環境世界の変化に抗うことができる。
といった体験をした時、「自分は環境世界の一部ではなく、環境から独立した別の存在かもしれない」と感じる場合があるかもしれない。

 このうち1.は、オペラント行動そのものであると言える。自分が走れば別の環境に移動できる、自分がシャベルで掘れば穴や山ができる、自分が木の枝を折れば、その枝は棒になる、...といったように、自分が行動すればその行動の量や質に応じて環境が変わっていく。いっぽう行動しなければ何も変わらない。そういう体験を通じて、何となく「環境を変えることのできる独立した存在」としての自己を体験できる可能性があるように思う。
 もっとも、オペラント行動は人間以外の動物(←少なくとも脊椎動物以上)でも普通に見られる行動である。かといって動物たちが皆「自己」を体験しているとは思われない。おそらく「自分は環境世界の一部ではなく、環境から独立した別の存在かもしれない」と感じるためには人間特有の言語行動が関与しているものと思われる。
 もう1つ、オペラント行動を続けているからといって常に「自己」を体験し続けていることにはならない。「我を忘れる」と言われるように、特定の行動に没頭している時はむしろ「自己」は消えているかもしれない。電車の運転士が時刻表や信号に合わせてスピードを調整している場合、あるいは駐車場の整理員が車の次々と出入りする状況に応じて適切に指示をだしている場合などは、「自己」を感じる余裕は無いかもしれない。もしかすると、オペラント行動を続けていること自体は自己体験ではない。オペラント行動を続けている最中に気が散って、自分がいま行動していることについて雑念が生じた時にだけ「自己」が感じられるのかもしれない。

上掲の2.の「自ら行動することで環境世界の変化に抗うことができる」というのは、例えば川の流れに逆らって上流方向に向かってボートを漕ぐというような体験である。あるいは、動く歩道の上を逆方向に歩くような場合も当てはまる。いずれも、自ら行動することで、一時的に環境変化をくい止めることができる。もっとも、外界の変化に抗う行動(もしくは環境を変化させる行動)自体は、人間以外の動物でも自発されている。人間だけが恣意性を実感している(と、推測される)のは、もろもろの行動を「自分のやった行動」として言語的にラベルづけしているためだろう。

 上記の1.や2.のほか、旅行などを通じて新たな環境世界に身を置くことも、「そこに自分が居る」という感覚をもたらす。他の人が撮った写真や動画がいくらリアルであっても、この感覚には到達できない。

 以上に述べた「自己感」は、ACTで言う『プロセスとしての自己』の一部かもしれない。但し、「我を忘れる」というように、オペラント行動に没頭すればするほど自己を感じるというものではない。また、留意しなければならないのは、我々はふつう、環境により適応的になるように、強化されながら行動しているという点である。環境世界からの独立性をわざわざ確認したところであまりメリットは得られない。それよりも、精一杯行動し、それに見合った成果を獲得できている時のほうが、「自分はいま生きている」という充実感、自己効力感を実感できるのかもしれない。

 不定期ながら次回に続く。