じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 9月11日、大相撲幕内の土俵入りを視ていたところ、若隆景(荒汐部屋)と湘南乃海(高田川部屋)が北斎の『神奈川沖浪裏』、翔猿(追手風部屋)と大栄翔(追手風部屋)が埼玉栄高校の化粧まわしをつけているのが目にとまった。同じ図柄の2力士が続けて土俵に上がる確率がどのくらいあるのか興味を持った。同じ部屋の力士であれば事前に示し合わせていたこともあると思うが、若隆景と湘南乃海の図柄は偶然の一致だろうか。
 なお9月10日の土俵入りの様子をNHK+でチェックしたところ、若隆景と湘南乃海は11日と同じ『神奈川沖浪裏』、翔猿と大栄翔はそれぞれ別の図柄の化粧まわしをつけていた。


2024年9月12日(木)




【連載】『3つの自己』の再考(6)概念化された自己(1)他者の概念化から自己の概念化へ

 昨日に続いて、「概念化された自己・他者」についての考察。今回から「概念化された自己」について考察する。

 前回までのところで、人はみな生身の相手ではなく、概念化された他者を相手に人付き合いをしていると述べてきた。こうした概念化は自分自身に対しても行われる。
 『概念としての自己』はACTでもしばしば言及されている。こちらの紹介記事では、
■「概念としての自己」に対するとらわれ
「概念としての自己」とは、「私は〇〇だ」という文章の内容で自分を捉えること(自分に対する思考)です。概念としての自己は、適度な距離感で付き合えば、自分の人生を豊かに送るヒントをくれます。例えば「私は強い人間だ」という自己像を持っていれば、自信を感じながら日々を過ごすことができます。しかし、そこに過剰に囚われると(思考と現実が混同されると)、自分が弱っている時にも「私は強い人間だ」という自己にしがみつき、必要な助けを求められないといった問題が起こる可能性もあります。逆も同じで、「自分は頭が悪い人間だ」と思い込むことで、自分をよりよくするチャンスを逃しているかもしれません。
というようにメリット、デメリットの両面が指摘されている。
 トールネケ『関係フレーム理論(RFT)を学ぶ』(2013年、152頁〜)では、『物語としての自己』あるいは『概念化された自己』という呼称のもとに、より詳しい説明がなされているが、より複雑で難解な部分もあり、考察は後回しにさせていただくことにしたい。

 「概念化された自己」は、おそらく「概念化された他者」のあとから形成されていくものと思われる。なぜなら、「自己を概念化する」という時に使われる「概念」は、すべて「他者を概念化」した時に用いられた「概念」を借用せざるを得ないからである。上掲の「私は強い人間だ」とか「自分は頭が悪い人間だ」といった概念化は、基本的に他者の特徴を借用し比較したものであり、他者の概念化無しには表現することができない。これは例えば「私は背が高い」、「私は太っている」というような特徴づけがどうやったらできるのかを考えてみればよいだろう。毎日、学校や職場に通っている人であれば日々そこで出会う他者を比較することで、「自分はこの集団の中で背が高い」とか「この集団の中では太っている」というように自分の体格を特徴づけることができる。いっぽう、ロビンソン・クルーソーのように無人島で単独生活を送ることになると、自分の体格を比較する基準が失われてしまう。「最近背が伸びた」とか「最近太ってきた」といった自分を基準にした特徴づけはできるが、それ以上のことはできない。別の例としては『ガリバー旅行記』を挙げることができるだろう。ガリバーが巨人であるか小人であるかは、漂着した国に住む人たちとの相対的比較によって決まる。

 「他者の概念化」からは移入できないような「自己の概念化」が可能かどうかは何とも言えない。少なくとも自分自身の性格を語るとなれば他者との比較は必須となるだろう。特性論的な性格概念というのは、すべて平均値からの隔たり(偏差値)で量的に評価されるものであるからして、自分に固有の特徴づけというのは原理的に困難となる。また自分独自の特徴を質的に記述したとしても、使われている表現が他者の特徴記述からの借用である限りは「オンリーワン」とは言いがたい。

 とはいえ、自己だけに特有の概念化は、過去の記憶、過去から現在に至る連続性、他者と入れ替われないという実感、などを体験した時に何らかの形で可能になるのかもしれないが、「自己だけに特有」という前提ではそれを他者に伝えることは原理的に困難となる。要するに「自分とは自分だ」といった言語化できないモヤモヤのままに終わってしまうのかもしれない。もっとも、メタファーを活用すれば、何となくそういう概念化されたものがあるらしいと納得できるようになるかもしれない。
 ちなみに、自己を捨てること、つまり我執(がしゅう)を捨てるという宗教もあるが、実は、捨てることのできる範囲はまだまだ自己の一部ではない。すべてを捨てきった時に残るのがホンモノの自己かもしれないという気もする。

 次回に続く。