【連載】NHK『映像の世紀バタフライエフェクト 戦後日本の設計者 3人の宰相』(2)政界進出の経緯とバタフライエフェクト
昨日に続いて、2024年12月30日に初回放送された表記の番組のメモと感想。昨日も述べたように、3人の首相についての歴史的評価はまだ定まっておらず、私自身があれこれコメントすることは難しいように思う。ここでは、3人の宰相について、
- それぞれどういう経緯で政界に登場したのか?
- 三者の間の合計3通りの関係はどうであったのか?
- それぞれどういう経緯で首相を退いたのか?
といった観点から、事実としてはっきりしていることを確認し、またどこにバタフライエフェクトがあったのかを考察したいと思う。なお、個人名の敬称は略させていただく。
まず1.の政界に登場した経緯であるが、放送内容やウィキペディアの記述をもとに要約すると以下のようになるかと思う。
- 吉田茂(1878-1967、89歳没)
- 吉田の実父と養父は若い武士として1868年(慶応4、明治元年)の明治維新をはさむ激動の数十年間に名を成した者たちであった。
- 1906年、外務省入省。
- 駐英大使としては日英親善を目指すが、極東情勢の悪化の前に無力だった。また、防共協定および日独伊三国同盟にも強硬に反対した。1939年(昭和14年)待命大使となり外交の一線からは退いた。
- 1945年に入り日本の敗色が濃くなると、近衛文麿に殖田俊吉を引き合わせ、後の近衛上奏文につながる終戦策を検討。近衛上奏に協力したことが露見し憲兵隊に拘束される。40日あまり後に不起訴・釈放となったが、この戦時中の投獄が逆に戦後は幸いし「反軍部」の勲章としてGHQの信用を得ることになったといわれる。
- 1946年5月、日本自由党総裁鳩山一郎の公職追放に伴う後任総裁への就任を受諾。内閣総理大臣に就任した(第1次吉田内閣)。大日本帝国憲法下の天皇組閣大命による最後の首相であり、選挙を経ていない非衆議院議員(貴族院議員なので国会議員ではあった)の首相も吉田が最後である。また、父が公選議員であった世襲政治家が首相になったのも吉田が初めてである。
- 岸信介(1896-1987、90歳没)
- 岡山市立内山下小学校から岡山中学校【現・朝日高校】に進学したが、叔父の佐藤松介(医師・岡山医学専門学校教授)が肺炎により急逝したため、2年と1ヶ月足らずで山口に戻り、山口中学校に転校。中学3年生の時、婿養子だった父の実家・岸家の養子となる。
- 1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部に入学。このころの岸は社会主義に関心を寄せてカール・マルクスの資本論やフリードリヒ・エンゲルスとの往復書簡などを読んだものの、国粋主義的な北一輝と大川周明の思想の方に魅了された。国粋主義者の上杉慎吉の木曜会と興国同志会に属し、上杉から大学に残ることを強く求められ、我妻もそれを勧めたが、岸は官界を選んだ。
- 1939年(昭和14年)10月に帰国して商工次官に就任。1941年(昭和16年)10月に発足した東條内閣に商工大臣として入閣。『米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書』に署名。太平洋戦争中の物資動員の全てを扱った。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙で当選し、政治家としての一歩を踏み出した。
- 田中角栄(1918-1993、75歳没)
- 1934年3月、農村工業論を唱えて新潟県柏崎に工場建設していた理化学研究所の大河内正敏が「(自身を)書生に採用する」という話が持ち込まれ、それを機に上京するが東京に着いてみると書生の話は通っておらず、やむなく仮寓先としていた群馬に本社がある土建会社井上工業の東京支店に住み込みで働きながら、東京神田の中央工学校夜間部土木科に通った。
- 1938年、徴兵適齢のため受けた徴兵検査で甲種合格となり、4月より満州国富錦で兵役に就く。
- 同年11月にクルップ性肺炎を発症、翌年2月内地に送還される。治癒後の1941年10月に除隊、翌月に東京の飯田橋で田中建築事務所を開設し、1942年3月に事務所の家主の娘、坂本はなと結婚した。家主は土木建築業者で、結婚によりその事業も受け継いだ。
- 1945年11月に戦争中より田中土建工業の顧問だった進歩党代議士の大麻唯男からの要請で献金を行ったことをきっかけに、大麻の依頼により1946年4月の第22回衆議院総選挙に進歩党公認で、当時の新潟2区から立候補したが、候補37人中11位(定数は8)で落選。
- 1947年4月、新たに設定された中選挙区制の新潟3区(定数5)から、進歩党が改組した民主党公認で立候補し、12人中3位(39,043票)で当選。
- 1948年10月、芦田内閣が昭和電工事件により総辞職し第2次吉田内閣が発足。新内閣で田中は法務政務次官に就任。
第二次大戦とのかかわりを見ると、
- 吉田茂は言うまでもなく戦後日本の礎を築いた立役者であったが、もともと米英との戦争には反対しており、これが幸いとなってGHQからは反軍部として信用された。
- 岸信介は開戦時の商工大臣であり、終戦直後にA級戦犯被疑者として巣鴨に拘置されたが、冷戦によるアメリカの方針転換により不起訴により釈放された。
- 田中角栄は3人の中では唯一兵役に就いているが肺炎により治癒後に除隊。田中建築事務所を開設。
となっている。
放送の冒頭では、1945年8月15日の玉音放送の際に3人がどこでどういう状態で過ごしていたのかが紹介されていた。
- 吉田茂:天皇への終戦工作で逮捕・釈放されたあと体調を崩し、大磯で療養中。「瘍を煩い大磯にふしていた。『憤り発して背に瘍を生ず』というところである」【吉田茂『回想十年』】。
- 岸信介:日本の敗色が濃厚になると中央政界から離れ、故郷の山口で過ごしていた。「その時猩紅熱にかかっており病床であの放送を拝聴した。全面降伏ということで魂が抜け出たような気持ちだった」【岸信介ほか『岸信介の回想』】
- 田中角栄:朝鮮半島で建設会社の社長として軍需工場の建設を請け負っていた。日本降伏を知るとすぐさま船に乗り朝鮮を脱出した。「8月8日の夕方、ソ連軍が朝鮮へ侵入するとの情報が入った。日本語以外は聞こえなかった町が朝鮮語になった」【田中角栄『わたくしの少年時代』】。
こうしてみると、吉田茂や岸信介は終戦当時は東京から離れた場所で病気療養中であり、たまたま病気に罹っていたことで空襲などの危険から逃れられていたという「バタフライエフェクト」が働いていた可能性がある。
また田中角栄は徴兵検査で甲種合格となり、
●現役兵たる騎兵として陸軍の騎兵第24連隊への入営が通知される。1939年に入営し、4月より満州国富錦で兵役に就く。
という経歴があるが、その後、
同年11月にクルップ性肺炎を発症、翌年2月内地に送還される。治癒後の1941年10月に除隊、翌月に東京の飯田橋で田中建築事務所を開設。
という経緯をたどった。こちらによれば、クルップ性肺炎というのは、
●肺炎双球菌によって起こる肺炎。突然高熱を出し、三〜四日で急に下がるが不安定で、五〜六日後に平熱になる。胸痛、頭痛、呼吸困難、意識障害などの症状を起こす。大葉性肺炎。クループ性肺炎。
とのことであるが、現代医学ではどう分類されているのか、除隊が認められるほど予後が悪いのかは分からない。しかしいずれにせよ、肺炎にかかったというバタフライエフェクトによって戦中・戦後に建設会社社長として活躍できたことは確かなようだ。
余談だが、今回の放送の中は、3人いずれもが記者会見やテレビスタジオなどで喫煙をしている映像があった。とりわけ吉田茂の葉巻は有名。これだけタバコを吸っていれば、肺がんや喫煙由来の疾患に罹りやすくなるのではないかと懸念されるが、ウィキペディアによると、死因は以下の通り、
- 吉田茂(89歳没):心筋梗塞。1967年8月末に心筋梗塞を発症。死去前日の10月19日に「富士山が見たい」と病床で呟き、三女の和子に椅子に座らせてもらい、一日中飽かず快晴の富士山を眺めていたが、これが記録に残る吉田の最期の言葉である。翌20日正午ごろ、大磯の自邸にて死去。突然の死だったため、その場には医師と看護婦3人しか居合わせず、身内は1人もいなかった。臨終の言葉もなかったが、「機嫌のよい時の目もとをそのまま閉じたような顔」で穏やかに逝ったという。
- 岸信介(90歳没):心不全。1986年10月、高野山に弘法大師奉賛会会長として参詣した時に風邪をひき、東京女子医大病院に入院。その後糖尿病と肝機能障害の治療のため、1987年1月に東京医大病院に転院し療養していたが、高齢からくる衰弱に加え、肺炎も併発し死去。
- 田中角栄(75歳没):1993年12月16日に慶應義塾大学病院にて痰が喉につかえたことからくる肺炎のため死去。有罪判決を受けた刑事被告人のまま死去したため、位階勲章は与えられなかった。
以上を見ると、3人ともやはり喫煙由来による疾病が寿命を縮めた可能性はあるが、吉田茂と岸信介は日本人男性の平均寿命よりはるかに長生きしており、タバコを吸っていてそこまで生きられるならそれも1つの生き方かもしれないと思う。もっとも本人がタバコを吸えば、側近や記者、テレビ出演時の聞き手などにも煙がかかり受動喫煙の被害をもたらした可能性は大いにあったと思われる。
次回に続く。
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