じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 1月6日の岡山は早朝から昼前にかけて合計9.5ミリの雨が降った。0.5ミリ以上の雨が降ったのは11月26日の6.5ミリ以来であった。
 このことであれっ?と思ったが、そう言えば2024年12月は雨らしい雨は一度も降らなかった一方、道路が濡れていた日があったような気がした。
 ということで2024年12月の日々の雨量を調べたところ【画像参照。加工あり】、降水量が0.0ミリの日が結構多かったことが確認できた。また日々の天気概況を見ると【画像右端】、「一時雨」、「時々雨」、「みぞれ」といった降水がが記された日がなんと20日もあったことが確認できた。
 要するに12月は山陰地方からの雪雲・雨雲の到来でそれなりにしぐれる日が多かったものの、0.5ミリ以上の降水には至らず。結果的に「天気概況では20日も雨が記録されているのに合計降水量はゼロ」という奇妙なデータになったものと考えられる。
 ちなみに岡山県が「晴れの国」なのは晴れの日や快晴の日が多いからではなく、降水量1ミリ未満の日が日本一多いことを根拠にしているとか[]。そういう点で言えば、2024年12月は、「岡山では1ミリ以上の雨は降りにくい」ことを証拠づける「晴れの国」らしい雨の降り方であった。
_]こちらによれば、「晴れの日」が一番多いのは香川県で、岡山県は16位。「快晴の日」が一番多いのは埼玉県で、岡山県は15位。

2025年01月07日(火)




【連載】NHK『映像の世紀バタフライエフェクト 戦後日本の設計者 3人の宰相』(3)首相就任のバタフライエフェクト、3人の関係

 昨日に続いて、2024年12月30日に初回放送された表記の番組のメモと感想。
 本日は、3人が首相に選ばれるにあたってバタフライエフェクトのようなものがあったのかどうか、さらに、吉田茂−岸信介、吉田茂−田中角栄、岸信介−田中角栄という3通りの関係がどうであったのか、放送内容やウィキペディア等の記述をもとにまとめてみたい。【以下、敬称略】
 なお放送の冒頭では渡辺恒雄『永田町見聞録』の一節が紹介されていた【句読点等の改変あり】。
戦後政治史の舞台にはさまざまな個性を持った人物が登場した。ワンマン吉田茂の政権への執念、岸の狡猾な官僚政治、田中角栄の生臭い権力との格闘と自滅、確実に言えることは胎児が母斑をもつように現在と過去と断絶した政治はありえず、21世紀の政治といっても戦後史の既成事実に制約される。


 まず、首相に選ばれた経緯。
  • 吉田茂
    • 1906年に外務省に入省して以来外交畑を歩いてきた。
    • 戦後、GHQとの交渉役として外務大臣に任命された。
    • 『わが外交を語る』というテレビ番組の中で吉田は「別荘(刑務所)に行ったおかげでもって総理大臣になれたんですね。別荘へ行ったということは私なぞの自由主義、軍部に対する反感が証明されましてね。マッカーサーも安心して使ったんだろうと思いますがね。」と語っていた。
    • 1946年、日本自由党総裁鳩山一郎の公職追放に伴う後任総裁への就任を受諾。内閣総理大臣に就任した(第1次吉田内閣)。大日本帝国憲法下の天皇組閣大命による最後の首相であり、選挙を経ていない非衆議院議員(貴族院議員なので国会議員ではあった)の首相も吉田が最後である。また、父が公選議員であった世襲政治家が首相になったのも吉田が初めてである。
    • 1947年4月、日本国憲法の公布に伴う第23回総選挙後、初の社会党政権である片山内閣が成立したが長続きせず、続く芦田内閣も1948年、昭電疑獄により瓦解。この間、政策に不満を持ち民主党を離党した幣原喜重郎や田中角榮らの民主クラブと日本自由党が合併し民主自由党が結成され、吉田が総裁に就任。
    • 第24回衆議院議員総選挙で民主自由党が大勝。戦後の日本政治史上特筆すべき第3次吉田内閣を発足させた。


  • 岸信介
    • 1954年11月に鳩山一郎と共に日本民主党を結成し幹事長に就任。かねて二大政党制を標榜していた岸は、鳩山一郎や三木武吉らと共に、自由党と民主党の保守合同を主導した。
    • 1955年(昭和30年)10月には左右両派に分裂していた日本社会党が再び合同したため、これに対抗して11月に新たに自由民主党が結成された。岸は同党の初代幹事長に、鳩山一郎は初代総裁に就任した。かくして「55年体制」が始まった。
    • 1956年(昭和31年)12月14日、自由民主党総裁選挙に立候補するが7票差で石橋湛山に敗れ(岸251票、石橋258票)、外務大臣として石橋内閣に入閣した。
    • 2か月後に石橋が病に倒れ、首相臨時代理を務め、石橋総理の代役で施政方針演説を行った。石橋により後継首班に指名され、国会の首班指名時において自民党総裁以外の自民党議員が指名された形となった(首相就任の1ヵ月後の3月21日に自民党総裁に就任)。1957年2月25日、石橋内閣を引き継ぐ形の「居抜き内閣」で前内閣の全閣僚を留任、外相兼任のまま第56代内閣総理大臣に就任した。
    • こうしてみると、岸信介はその政治力からみていずれ首相に就任する可能性があったが、1957年という早期に就任できた経緯には、石橋湛山の病気というバタフライエフェクトが働いていたことは間違いない。『岸信介 最後の回想』の中で岸は「石橋さんが元気で健康であったら俺は総理になれなかったのだが、ちょっと考えられないくらい早く総理になった。やっぱり運がついてなきゃだめだな」と語っている。


  • 田中角栄
    • 1957年(昭和32年)7月 - 第1次岸信介改造内閣で郵政大臣に就任。戦後、初めて30歳代での国務大臣に就任。
    • テレビ局と新聞社の統合系列化を推し進め、その強力な権力と指導力により、現在の新聞社 - キー局 - ネット局体制の民間放送の原型を完成させる。その過程で官僚のみならず報道機関も掌握した。特に民放テレビ局の放送免許(とりわけ地方テレビ局の無線局免許状交付の可否)を郵政省の影響下に置いたことは、その後の田中に飛躍の原動力になった。
    • 1961年(昭和36年)7月 - 自由民主党政務調査会長。
    • 1962年(昭和37年)7月 - 第2次池田勇人内閣の改造で大蔵大臣。
    • 1972年7月5日 - 佐藤栄作が支持した福田赳夫を破り自由民主党総裁に就任。


次に、放送内容から3人の関係について言及された部分を抜き出してみる【要約・改変あり】。
  • 吉田茂−岸信介
    • 『岸信介証言録』1953年4月19日の衆議院総選挙で岸が当選し、岸が吉田に挨拶に行ったところ吉田から「参議院に出ろ」と勧められた。「君のガラの悪いのはよく知っているから。衆議院より参議院へ行けと言ってるんだ」。吉田は岸がいずれ政敵になると考えていた。岸は吉田が率いる自由党に属しながらも新党結成に動いた。1954年12月7日、岸は吉田に最後通牒をつきつけ吉田内閣は総辞職。
    • 1960年5月8日、アメリカから帰国した岸と吉田が大磯で揃う貴重な映像が紹介された。外遊に出る吉田の壮行会に岸が訪れた時のこと。安保条約の内容について対立していた2人であったが、映像の中では終始笑顔を見せていた。
    • 岸が首相を辞任した際、吉田は岸に次期首班を池田勇人にするよう求める書簡を送った。
  • 吉田茂−田中角栄
    • 1948年、第2次吉田内閣で田中角栄はわずか30歳で法務政務次官に就任。
    • 『田中角栄の昭和』によれば、吉田は田中について「あの男は有能な人物だ。だがいつも刑務所の塀の上を歩いているような危ない男だ」と評している。
    • 『田中角栄』によれば、田中は「偉くなるには大将のふところに入ることだ」と述べている。
  • 岸信介−田中角栄
    • 福田赳夫と総裁選を争った時には、岸は福田を推していた。
    • 『わたしの安部晋太郎』によれば、岸は田中について「田中は湯気の出るようなカネに手を突っ込む。そういうのが総理になると危険な状況をつくりかねない」と評している。
    • 1983年10月28日、岸はロッキード事件で有罪判決を受けた田中を訪れ議員辞職を勧めた。田中はこのことについて、「【岸に】あんたも巣鴨に入っていたから今でもそんなに元気なんだ、と言ってやったよ」、「お互いに厳しいところを生きてきたんだと言ったら岸もうなずいていた」と語っている。


 ここからは私の感想・考察を述べさせていただくが、まず、3人の首相就任の経緯を見ると、
  • 吉田茂:GHQに気に入られた点は大きい。但し、第2次〜第5次という長期にわたる組閣は国内の政治的な力関係のなかで成立したものでどのようなバタフライエフェクトがあったのかは分からない。
  • 岸信介:A級戦犯でありながら不起訴になったこと、石橋湛山が病に倒れたことなど、いくつかのバタフライエフェクトがあった。
  • 田中角栄:昨日も述べたが、兵役についたあとクルップ性肺炎を発症、治癒後に除隊となったことで戦死を免れ、かつ建設会社を成功させた点はバタフライエフェクトと言える。政界進出後の多数派形成は本人の実力とも言えるが、そのわりに不本意な最期を迎えたのはどこかに計算ミスがあったのだろうか。

 次に、3者それぞれの関係であるが、吉田と岸の対立についてはこれまで詳しく調べたことが無かった。岸と田中も同様。吉田は1967年に亡くなっているので、1972年に田中が首相となったことは知らなかった。もし生きておられたらどう反応されただろうか。

 次回に続く。