【連載】NHK『映像の世紀バタフライエフェクト 戦後日本の設計者 3人の宰相』(4)首相を退いた経緯、実行力を備えた首相は?
昨日に続いて、2024年12月30日に初回放送された表記の番組のメモと感想。本日で最終回。
本日は、
- それぞれどういう経緯で政界に登場したのか?
- 三者の間の合計3通りの関係はどうであったのか?
- それぞれどういう経緯で首相を退いたのか?
という3つの話題のうち最後の3.について考察する。【以下、敬称略】
まず、吉田茂が総辞職したのは1954年12月7日。岸信介を含む野党勢力による不信任案の可決が確実になり、総辞職した。放送では12月6日に「岸らがが吉田に最後通牒(内閣不信任案)をつきつけた」ということだけしか言及されていなかったが、ウィキペディアにはもう少し詳しい経緯が記されている【以下、要約・改変あり】。
- 第25回衆議院議員総選挙で自由党の議席は過半数をわずかに上回るものだった。吉田は第4次吉田内閣を組織した。
- 1953年(昭和28年)2月、吉田が衆議院予算委員会で質問者(西村栄一)に対し「バカヤロー」と発言したことが問題となり、三木武吉ら反吉田グループは吉田に対する懲罰事犯やそれに続く内閣不信任案を可決させ、吉田は衆議院解散(バカヤロー解散)で対抗した。選挙の結果、自由党は少数与党に転落、改進党との閣外協力で第5次吉田内閣を発足させて延命を繋いだ。吉田内閣は鳩山グループとの抗争や度重なる汚職事件を経て、支持は下落していく。
- 1954年(昭和29年)1月から強制捜査が始まった造船疑獄では、犬養健(法務大臣)を通して、検事総長に佐藤栄作(幹事長)の収賄罪の逮捕を延期させた(後に佐藤は政治資金規正法違反で在宅起訴されるが国連加盟恩赦で免訴となる)。これが戦後唯一の指揮権発動である。当然ながら、新聞などに多大なる批判を浴びせられた。また、同年6月3日の警察庁及び道府県警察を設置する警察法全面改正をめぐる混乱では、議長堤康次郎に議院警察権を発動させて国会に警官隊を初めて投入した。【中略】同年12月、野党による不信任案の可決が確実となると、なおも解散で対抗しようとしたが、緒方竹虎ら側近に諌められて断念し、12月7日に内閣総辞職、
放送では岸らが内閣不信任案をつきつけたことで吉田内閣が総辞職したということだけ言及されていたが、上記のように、当時自由党は少数与党に転落しており、すでに不安定な状態にあった。また造船疑獄が内閣が倒れる発端になったとも言われている。
なお、造船疑獄も、後のロッキード事件もそうだが、戦後の日本では「政商」とか「金融王」といった大物が暗躍しており、今回取り上げられた吉田、岸、田中はあくまで表の世界で活躍した人物に過ぎない。戦後政治を真に分析するには、闇の世界にも目を向ける必要があるがなかなか難しそうだ。
次に岸信介が首相から退いた経緯だが、これは比較的シンプルで、
●1960年6月、安保条約の混乱の責任を取る形で辞意を表明。7月15日に総辞職。
となっていて、不信任されたわけではなかった。そのこともあり、岸は首相を退いたあとも強い影響力を持っていた。ウィキペディアから抜粋すると以下のようになる【要約・改変あり】。
- 1968年1月13日に統一教会教祖の文鮮明は大韓民国中央情報部(KCIA)の指示を受け、国際勝共連合を韓国で設立。次いで同年4月1日、岸は文、笹川良一、児玉誉士夫らと協力して、日本でも国際勝共連合を設立した。
- 1969年春、「自主憲法制定国民会議」(現・新しい憲法をつくる国民会議)を立ち上げ、初代会長に就任。
- 日韓国交回復にも強く関与した。時の韓国大統領朴正煕もまた満洲国軍将校として満洲国と関わりを持ったことがあり、岸は椎名悦三郎・瀬島龍三・笹川良一・児玉誉士夫ら満洲人脈を形成し、日韓国交回復後には日韓協力委員会を組織した。
- 1984年11月26日付けで、時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンに対し、脱税で懲役刑に処されていた世界基督教統一神霊協会(現・世界平和統一家庭連合)教祖・文鮮明の早期釈放を嘆願する書簡を送付。
- 大韓民国中央情報部(KCIA)元部長の金炯旭によれば、岸は韓国への円借款供与と鉄道建設に関連する汚職に関与している。
最後に3.の田中角栄だが、首相を退いた経緯は、上掲の吉田や岸に比べると本人にとって最も不本意な結末になっている。ウィキペディアから抜粋すると以下のようになる【要約・改変あり】。
- 1974年10月 - 月刊誌『文藝春秋』(1974年11月号)が、立花隆「田中角栄研究」、児玉隆也「淋しき越山会の女王」を掲載し田中金脈問題を追及、首相退陣の引き金となる。
- 1974年11月 - 日本外国特派員協会における外国人記者との会見や国会で金脈問題の追及を受け、第2次内閣改造後に総辞職を表明。12月9日に田中内閣総辞職。椎名裁定により三木内閣発足。通算在職日数は886日。
田中内閣というとロッキード事件がすぐに浮かぶが、この問題が発覚したのは総理退陣より後のことであった。ウィキペディアによればその経緯は次の通り【要約・改変あり】。
- 1976年(昭和51年)2月 - ロッキード事件発生。アメリカ合衆国の上院外交委員会で、ロッキード社による航空機売り込みの国際的リベート疑惑が浮上。
- 1976年7月27日 - ロッキード社による全日本空輸に対する売りこみにおける5億円の受託収賄罪と外国為替・外国貿易管理法違反の容疑により、秘書の榎本敏夫などと共に逮捕される。また全日本空輸とロッキードの販売代理店の丸紅の社長以下数人の社員も逮捕された。なお、総理経験者の政治家が逮捕されるのは昭和電工事件の芦田均以来。逮捕時に自民党を離党し、以後無所属に。8月 - 保釈。
- 1983年10月 - ロッキード事件の一審判決。東京地方裁判所から懲役4年、追徴金5億円の実刑判決を受け、即日控訴。
- 1985年2月27日 - 脳梗塞で倒れ入院。言語症や行動障害が残り、以降政治活動は不可能に。
- 1986年(昭和61年)7月 - 第38回総選挙でトップ当選。田中は選挙運動が全く行えず、越山会などの支持者のみが活動。4年近くの任期中、田中は一度も登院できなかった。
- 1987年7月29日 - ロッキード事件の控訴審判決。東京高等裁判所は一審判決を支持し、田中の控訴を棄却。田中側は即日上告。
- 1993年12月16日 - 午後2時4分に慶應義塾大学病院にて痰が喉につかえたことからくる肺炎のため75歳で死去。ロッキード事件は上告審の審理途中で公訴棄却となる。
- 1995年(平成7年)2月 - 榎本敏夫に対するロッキード事件上告審の判決理由で、最高裁判所が田中の5億円収受を認定する(首相の犯罪)。
放送では2024年1月8日に発生した『目白御殿』火災の映像も流れていた。『目白御殿』が田中の陳情政治に舞台となったことは確かで、その焼失は田中政治の終焉を象徴するものと言えるかもしれないが、冷静に考えればこの火災は田中角栄とは無関係に起こったものであって単なるこじつけであるようにも思えた。
放送は、3人の遺した言葉で締めくくられていた【句読点等の改変あり】。
- 田中角栄:早坂茂三『田中角栄回顧録』による
政治家としての実績、仕事に対する信頼と期待がなければ有権者は投票してはくれない。政治家が国民に負っている責任というのは、政策を実行するかしないかである。これに尽きるんだよ、結局。
- 岸信介:原久『岸信介証言録』による
安保条約を有効に成立せしめるのは日本で俺一人しかいないんだと。殺されようが何されようが、日本のために絶対必要であると思っていた。執念というか、政治家というのはそういうものが必要だと思う。
- 吉田茂:吉田茂『大磯随想・世界と日本』による
全く政治は貧困である。日本のデモクラシーは出発後まだ日が浅く、大部分の民衆はその真意を理解していない。我々は議会政治よりほかに日本の向かう道はないと思っているから、あらゆる努力をしてそこへ向かっていかなければならない。しかし、私は決して失望していない。人間というものは進歩するのであって、将来は今よりも立派な人間が出てくることを私は信ずる。
ここからは私の感想・考察を述べさせていただくが、まず私の人生と対応させてみると、
- 吉田内閣:1946年〜1954年
私は1952年生まれなので、マイナス6歳〜2歳に対応。当然何も覚えていないが、1967年10月の国葬の日は、中学の行事で裁判所傍聴があり、その合間に黙祷が行われたことをはっきり覚えている。ちなみにこの時に傍聴した交通裁判の被告は「無免許(更新手続を怠っていた)、飲酒運転、ひき逃げ」という罪状であり、6か月の実刑となった。
- 岸内閣:1957年〜1960年
私は5歳〜8歳。安保条約を巡る混乱ははっきり覚えているが、その後の池田勇人の「貧乏人は麦を食え」や「私は嘘は申しません」発言や「前がん状態」報道のほうがはるかに印象が強い。
- 田中角栄:1972年〜1974年
私は大学2年〜4年。2013年4月16日の日記にも書いたことがあるが、当時の田中内閣は右翼団体からも批判をされており、渋谷のガード下に「腐敗○○党、亡国××党、二股曖昧△△党、邪教●●学会、国賊□□党」とともに、「唯物的土建屋政治・田中内閣打倒」という貼り紙があったことを記憶している。
さて上記をふまえて3人について振り返って見ると、まず吉田茂については私が生まれた時点及び2歳までの幼少期の首相であったため、当然何も記憶に残っていない。上記のように国葬の日には裁判所の廊下で黙祷を指示されたが、自分の意思ではなかったし、黙祷に値する偉大な人物であったのかどうかも当時はよく分からなかった。今回の放送からは、吉田は徹底した自由主義者であり、今の時代に移行させると護憲主義者であったのかもしれないという印象を受けた。
次の岸信介は、60年安保の改定の立役者であったということしか記憶に残っていない。ウィキペディアによれば内閣退陣の際、岸は、
●「私のやったことは歴史が判断してくれる」「安保改定が国民にきちんと理解されるには50年はかかるだろう」
という言葉を残しているという。すでに65年がたったいま、改めて1960年以降を振り返ってみると、安保体制は1960年当時の反対者が唱えていたほどに日本を危険な状況に追い込むことはなく、結果的に日本の平和の維持に寄与したという面はあるとは思う。もっともこれは結果オーライ的な評価であり、世界情勢が別の方向に変化していればどうなっていたのかは何とも言えない。
上にも書いたが岸信介は3人の中では最も闇の部分が多く、放送では一言も言及されなかったが、統一教会との関係など、首相を退いたあとの活動についても評価されなければならないように思う。
最後の田中角栄は、本人にとって最も不本意な晩年を迎えていたが、「政治家が国民に負っている責任というのは、政策を実行するかしないかである。これに尽きるんだよ、結局。」という言葉は確かにその通りかもしれない。いま話題のトランプ次期大統領なども、いろいろな事件で訴えられているものの、アメリカの国民の多数派にとっては、当人が清廉潔白であるかどうかではなく、自分たちの生活を守るための政策をちゃんと実行する人のほうがはるかに支持されやすいことを示している。
安倍内閣以降、日本では短期間で首相が交代しており、かつての田中角栄のような強烈な実行力を備えた人物はいっこうに表れていない。ま、大統領に選ばれた人が次々と逮捕されたり自殺するといったお隣の韓国に比べれば、日本の政治は今のところ安定しており、これでエエのかもしれないとも思うが、有事の際にちゃんと対応できるかどうかは心もとないところもある。
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