【思ったこと】
980706(月)[教育]PTA講演会「子どもへの暴力防止」(その5)「じゆう」(その1) 7/5の日記の続き。3つの大切な権利のうちの最後の「じゆう」について考えてみたい。こんどの参院選でも党名に「じゆう」を含む政党が複数あるけれど、本当の自由というのは何かというのは考えれば考えるほど難しい。 6/30の日記でもちょっとふれたように、「じゆう」については会場からも 権利としての「じゆう」を大幅に認めてしまうと、我がまま、好き放題に子供を放任することにならないのかという質問があった。これに対して講師の先生は、決してそのような勝手な行為を認めるわけではない。ここで言う自由とは「選択肢が複数与えられそれを選べる状態にあること」であるというように答えておられた。 確かに、選択肢が1つしかないというのは、あまり自由とは言えない。厳密に言うと「するか、しないか」も1つの選択肢であるから、義務的な状況(=ある行為を「する」以外に選択肢が無い状況)もしくは禁止されている状況(=ある行為を「する」という選択が禁止されている状況)というのは「じゆう」が奪われた状況であると考えることは納得できる。 とはいえ、選択肢が複数与えられていることが「じゆう」の十分条件であるかと言えば、そうとも言えない。例えば死刑執行直前の死刑囚が、絞首刑、銃殺、薬殺、電気椅子、ギロチンのうちのどの方法で処刑されるかについて自分で選ぶ権利が与えられたとする。この場合、この死刑囚は自由と言えるだろうか。 死刑囚には「生きる」という選択肢が無いから自由でないという人もおられるかもしれない。しかし我々だって、遅かれ早かれ死ななければならない。「生きる」という権利が無制限に与えられていないという点では、われわれは皆、執行待ちの死刑囚と大して変わらない側面をもっている。 選択肢が与えられていても自由とは言えない第2の問題は、我々の行動が常に結果によってコントロールされているという事実である。例えばA店とB店が自宅から等距離のところにあり、品質が全く同じスイカをA店では1000円、B店では500円で売っていたとする。店員の態度とか途中の道路事情など他の条件が全く同じ程度にあるとするなら、たいがいの人はB店でスイカを買うはずである。選択肢がA、B2つあったとしても、事実上、B店に足を運ぶように結果によってコントロールされているのである。 では、いま上に述べた文章を読んで、「オレはゼッタイにA店を選ぶぞ」という人が出てきた場合はどうなのか。しかしこの場合の選択は、じつは価格ではなく、「はせぴぃの予言を外してやったぞ」という別の結果によってコントロールされているにすぎない。 「ダラダラと過ごす」というように表面的には何の結果も生まれていないような行動も、「義務や束縛からの回避」という意味で1つの重要な結果によってコントロールされているし、「ダラダラ」と言われる行動の中にも、消極的・受け身的ながら多数の結果が随伴している。 けっきょく我々は、選択肢が与えられていても「結果の奴隷」から解放されることはない。 さらにもうひとつ。刹那的なレベルの「じゆう」と、ある準備段階を経て開花する「自由」があることにも注意を向ける必要がある。ドライブを楽しむ自由を得るためには、その前段階として免許取得のための訓練を受ける必要がある。パラグライダー、スキューバダイビング、岩登り、自家用機操縦、さらには宇宙遊泳に至るまで、より高度の自由を得るためには、その途中で「不自由」に堪え忍ばなければならない。 以上見てきたように、複数の「選択肢」が与えられているといっても、我々は、しょせん、執行待ちの死刑囚であり、「結果」の奴隷であって、本質的な「じゆう」は存在しない。そして選択肢自体のレベルも「不自由」な努力の度合いによって変わりうるものである。時間が無いので明日以降に続く。 |
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