じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
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宿根スイトピー。土曜日の早朝、大学構内を散歩していたお婆ちゃんがこの花を眺めていた。挨拶をすると、この時期にスイトピーが咲くのは珍しいという。いやこれは実は宿根性のもので花期が長いんですよなどと話した。じっさい、この花は丈夫で放っておくと茂みになってしまうほどの勢い。 |
【夏期特別企画:看板を考える(その3)】
![]() 連載3回目は大学周辺の住宅街で見つけた看板。この近辺で猟銃など持ち歩くことはまず無い。この看板が取り付けられた頃はまだ野生動物が多く出没していたのであろう。 |
【思ったこと】 990718(日)[心理]ルール支配行動から生きがいを考える(5)努力のプロセスと結果 一昨日の日記の続き。本日は、努力のプロセスと結果の問題について考えてみたい。 じつはこの話題はルール支配行動とは全く別で、7月8日と7月9日でとりあげたAO入試がルーツになっている。そこでとりあげた「努力」という概念をめぐってがくもんにっき。さんが7/13の日記で次のような考えを述べておられた。 思えば「努力」というのは、不思議な概念だ。この言葉には、「骨を折る」という意味がこめられているが、その結果については何の示唆もない。つまり、結果がまったく意味のない無駄なことであったとしても、プロセスで骨をおってさえいればそれは「努力」したということになるのである。結果よりプロセスが大事だという、典型的な日本的美学である。しかも前近代的な。がくもんにっき。さんはさらに、補記の中で .....「努力」という言葉を強調しすぎるきらいのある小中高教育のひとつの意識改革を提案しようというのが主眼でした。思うに、「結果なんてどうでもいいんだ、一生懸命やることが大切なんだ」という教育方針は、高度成長時代の従順な労働力をうみだすのにはとても役だってはいたと思うのですが、それが今や転機を迎えているということは、多くの人が賛同するところではないでしょうか。と述べておられる。これらはいずれも、「努力さえすれば結果なんて」という努力観の問題点を指摘したものと見なすこともできる。この話題については、Island Lifeさん(7/15)や、ちはるの多次元尺度構成法(日記)さん(7/16の日記)、胡桃の中の航海日誌さん(7/15の囲碁の話。次回のネタにします)ほかからも貴重なご意見が寄せられている。一部同じ見方を繰り返すことになるが私の考えは次の通りだ。 まず、ルール支配行動のように、最終的な結果(しばしば「目標」と呼ばれる)が時間的にかけ離れたところに設定されているようなケースでは、個々の達成準備行動(これを熱心に行うことはしばしば「努力」と呼ばれる)は、最終的な結果への到達の度合いによって強化されるばかりでなく同時に準備行動が直接もたらす結果によっても強化されているということ。 同じ山登りでも、日本百名山早回りに挑戦している人の場合には、とにかく頂上に立つことだけが意味のある結果となる。この場合は、ガスがかかっていて周囲の景色が何も見えなくても、登頂を達成するだけで強化されることになる(但し、この人の最終目標は登頂ではなく百名山達成と最短所要日数ということになるが)。 しかし山登りを楽しむ人の場合は、登頂それ自体よりも、山麓での自然とのふれあいや尾根筋での景色の変化のほうがむしろ意味のある結果として伴っている場合が多い。そういう山登りを楽しむ人は、時間が足りずに頂上の近くで引き返すことになってもそれほど残念がることはないだろう。 ルール支配行動の中には、最終的な結果の達成のほうに意味があるケースと、最終的な結果よりも途中のプロセスで直接的な結果を得ることに意味のあるケースとがある。 前者は例えば災害現場での救助、人質の救出、外科手術など。もちろん失敗しても最大限の努力には労いの言葉がかけられるではあろうが、これらの場面では人の命を救うという目標を達成することが至上命題であって、極端に言えばどれだけ努力をしたかはどうでもよいことになる。「努力さえすれば結果なんて」という見方は単なる慰めの言葉としてしか意味を持たない。 いっぽう、上記のような形で山登りを楽しむケースでは登頂それ自体にはあまり意味はない。ロープウェイであっさりと登っても感激が少ないのは、登山途中、つまりプロセスに対して直接的な結果を体験していないためであると言える。こちらのケースでは、「努力さえすれば結果なんて」はむしろ正しい。但し、プロセスの個々の段階にちゃんと結果が随伴していればの話であるが。 最終結果よりも努力のプロセスが尊重されるのは、そこで身につけた技能に汎用性がある場合に多い。スポーツの大会で惜しくも優勝を逃したとしても、そこで身につけた力は次の大会で発揮される。資格試験に落ちても、翌年の試験で合格できる確率が高まる。 大相撲では、若手力士が立ち会い直後のはたき込みや引き技で勝とうとするとこっぴどく批判されることがある。これは、そういう安直な勝ち方にはまってしまうと積極的に攻める技を磨くことができず結局は強い力士になれないからである。「目先の勝利」よりも「自分の型で攻める努力」のほうが評価されるという点では、ここでも「努力さえすれば結果なんて」が一定の範囲(=極端に力士の地位を下げない範囲)で成り立つ。 最後に、この連載の本来の目的である「生きがい」との関係について一言。すでに何度か引用しているように(初出は1月31日)、スキナーは 「Happiness does not lie in the possession of positive reinforcers; it lies in behaving because positive reinforcers have then followed. 幸福とは、正の強化子【長谷川注:好子と同義】を手にしていることではなく、それが結果としてもたらされたがゆえに行動することという幸福観を貫いた。これを敷衍するならば、 人間の幸福は最終目標を達成すること自体にあるのではない。達成に向けたプロセスのそれぞれの段階で努力するにあたって、目標達成に結びつくような個別的な結果、あるいは目標とは無関係であるがそのプロセスを遂行しなければ決して出現しないような好子が随伴すること、それがもたらされるがゆえに行動することが幸福につながる。ということになるだろう。目標を達成した瞬間にはもはや「それが結果としてもたらされたがゆえに行動すること」は中止される。目標を達成した冒険者があまり大した感激を見せずに新たな目標を模索せざるをえないのはそんなところにある。最終目標の達成に価値が見いだされるのは、個人の幸福のレベルではない。その達成が他者や集団を利するからこそ、その枠組みの中でだけ評価されているに過ぎない。 |
【ちょっと思ったこと】
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【生活記録】
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【今日の畑仕事】
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【スクラップブック(翌日朝まで、“ ”部分は原文そのまま。他は長谷川による要約。)】
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