じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
頑張る雪だるま。2/8夜に作られた雪だるまがまだ残っている。すっかり形を変え、雪狸のようにも、オバQのようにも見える。 |
【思ったこと】 _00215(火)[日記]「即席評論家」としてのWeb日記作者の意義と節度(その4)口をつぐむことを美徳としてはならない 2/14の日記の続き。今回は3番目の論点について考えてみることにしたい。 殺人事件以外の諸々の社会現象を含め、Web日記作者が新聞記事やTV報道などの二次資料に基づいて素人的な意見を述べることには何ら情報的価値は無いのだろうか。結論を先に言えば、
上記1.については言うまでもないことであろう。別に仕事を持っている我々は、事件現場に駆けつけていくわけにはいかない。身の回りに直接起こったこと以外は常に二次資料に頼らざるを得ない以上、やむを得ないことである。しかしそれだけに、事実についての報道内容は正確に引用されなければならず、著作権をタテに制限が課されるようであっては困る。これについては2年余り前に、記事の著作権問題として論じたことがある。お読みいただければ幸いです。 2.については、むしろ新聞の投書欄などのほうが紙面の都合や編集者自身の価値基準でフィルターをかけられてしまう恐れがあって信用できない。私自身、中学〜大学の頃、新聞の投書欄に確か4回投稿して2回掲載された記憶があるが、いずれも2/3程度の分量に減らされていた。また、自分なりの基準で比較してみる限り、掲載された原稿とボツにされた原稿に差があるとも思えない。その点、Web日記では文章の一部を削られる恐れも、ボツにされる恐れもない。そういう中でテーマや文章量を気にせず自由に想像を膨らませていくところに「即席評論家」の真骨頂があるわけだ。このほか、テレビやラジオの街角インタビューなども当てにならないところがある。中にはヤラセもあるし、編集意図に合致したものだけがピックアップされている可能性もある。言うまでもないが、(Web日記を含む)個人サイトの最大の良さは、マスコミに掲載をお願いしなくても自由に意見を発表できるようになったこと。だからこそ、発言内容に責任を持ち時として自戒する必要も出てくるわけだが、基本的に口をつぐむことを美徳とするような風潮をつくってはいけないと思う。 3.については、一般に事件報道では、残虐な事件や不可解な事件が大きく取り上げられやすいことに留意していく必要がある。たとえば、昨日も引用した『受験勉強は子どもを救う』(和田秀樹、河出書房新社)によれば、分裂病者が人を殺しやすいという統計的根拠は無く、実際にはごくわずかしか起こっていないという。それが注目されるのは、相手をばらばらにしたり完全に抹殺するというように、やり口が残酷であるためだという[p.109]。この日記でも何度か指摘しているように、センセーショナルな事件ばかりに目を向けていても社会の本質に迫ることはできない。だからこそクリティカルな思考が必要になってくるのだ。 テレビでちゃんと伝えても受け手側で歪みが生じてしまうことがある。少々脱線してしまうが、「遠山の金さん」のお白州の場面で、“遠山左衛門尉(とおやまさえもんのじょう)様〜。御出座〜。”のあとの入れ墨を見せる場面でどういう台詞が決まり文句になっているのかを尋ねてみると、大概の人は「この遠山桜が目にとまらぬか!」と答えるとか。実際は「この遠山桜、よもや見忘れたたぁ〜言わせねえぜっ!」とか「...散らせてなるものか!」など何通りかあったらしいが、「目にとまらぬか!」とは一度も言っていないらしい。一般のニュースでも、この種の錯覚や「認知の歪み」が生じてしまう可能性がある。 ま、いろいと書いてみたが、議論の発端となったまついさんやRANDOM ACTさんのご指摘と、私が言いたいことの間にはそれほど大きな差は無かろうと考えている。いずれにせよ、「○○とはこういうものだ」、「○○はこういうものでなければならない」と固定的にとらえず、建設的な方向で、Web日記の発言の意義や可能性をさぐっていく姿勢が大切かと思っている。 |
【ちょっと思ったこと】
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【スクラップブック】
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【今日の畑仕事】
多忙につき立ち寄れず。 |