じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
オキザリス。花カタバミとも言う。写真はバリアビリスという品種で丈夫でよく増える。10年ほど前に、長崎の亜熱帯植物園で一面に咲いているのを見たことがあった。 |
【思ったこと】 _00226(土)[一般]ワープロ廃止論、電子メールにおける「個性」 2/27の朝日新聞の閑話休題で編集委員の外岡秀俊氏が「ワープロ廃止論の重み」について書いておられた。その中からの孫引きになってしまうが、書家の石川九楊氏が、雑誌『文学界』2月号で、教育の場や家庭からワープロやパソコンを放出せよという論を展開されているという。孫引きをご容赦いただいた上で石川氏の論点を読みとると
「文学は書字の運動である」という、石川氏の書家としての思い入れはよく分かるが、石川氏が「廃止論」の対象としている想定しておられるワープロというのは、たぶん漢字単熟語の変換に常に気を配らなければならない、15年ぐらい前の旧機種や旧バージョンではないのだろうか。いまのワープロ(機器またはソフト)では、「同音異義語の変換候補がすべて羅列され、執筆者がその中から適切な候補を選択する」などという操作はまず必要ない。変換候補は、執筆者の使用頻度によっても学習されていくし、文脈によってもある程度自動的に決められていく。 そのほか、ワープロユーザーなら言うまでもないことだが、ワープロを使えば、階層型の段落構成、段落の丸ごと入れ替え、加筆修正など思いのまま。私にとっては、手書き原稿で文字を修正したり、段落を切り貼りすることのほうがよっぽど思考をかき乱す無駄な行為であるように思える。 外岡氏の論文自体は、ワープロの弊害を主張したものではない。後半で石川氏のパーソナルコミュニケーション: 「電子メールは、言葉の垂れ流しでしかない。手紙は重い。やっとの思いで書き、封筒に入れる。切手をはっても、ポストの前で出さずに引き返すかもしれない。そういう深い思いや迷いを経て、ようやく届くのが手紙です」を引用し、電子情報は「個」の情報を発信しているのではなく、情報の海に「個」を消し去るためではないかというのが本旨であるようだ。 しかし、その論拠を、「漢字変換における選択行為の介在」や「執筆から投函に至る労力」に求めているのはちょっと飛躍があるように思う。単発の行為としてとらえるならば、EメイルやWeb掲示板が「切手を貼って投函する」手紙に比べてはるかに軽いのは言うまでもないことである。しかし、継続的に、しかも双方向に発信するという形態を見るならば、毎週1回未満程度が限度の手紙よりはるかに個性が発揮できる場となるはずだ。 もちろん外岡氏が最後に主張されているような .....情報の中で仮想の人間関係を確認し、自分は孤立していないと安心したいばかりに、発信を続けているだけではないのか。については、納得できる点もあるけれど、それは現実世界で正常な人間関係を保てない一部の人々についてのみ当てはまること。電子メイルという発信形態に本質的に内在する特徴であるとは思えない。 |
【ちょっと思ったこと】
|
【今日の畑仕事】
風邪気味のため本日も立ち寄れず。 |