じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
アパートのベランダから見た麦畑の朝。3/9撮影。夏期にはサツマイモ畑となり、秋には幼稚園・保育所の芋掘り遠足で賑わうところ。 |
【思ったこと】 _00308(水)[教育]最近の大学教育論議でおもふこと(15):「0点制」実施/履修登録をすることによって生じる義務 昨年10月20日の日記(連載版はこちら)で「履修科目登録上限制」について述べたことがあったが、その後、これに一部連動するかたちで「0点制」についての議論が急速に高まってきた。 「0点制」は、正式には「評価不能の廃止」。履修登録をした学生が、一度も授業を受けなかったり、授業は出席しても期末試験を理由無く欠席したりリポートを全く出さなかった場合、これまでは「成績評価不能」という「評価」が行われ、学籍簿原本上は履修の痕跡が全く残らないような配慮がなされていた。そのような配慮がなされるようになった経緯は今ひとつ分からないが、おそらく「評価というのは、学生が何らかの形で授業に参加してはじめて可能となるもの、一度も顔を出さない学生の評価はできない」という趣旨ではなかったかと考えている。 ところがその制度が「イヤになったら途中でやめればよい、試験さえ受けなければ0点にならない」という、安易な履修登録行為を許容し、結果的に、登録者数300人、実際の受講生50人というようなアンバランスを生み出すことになった。 こうした安易な登録はいろいろな弊害を生み出す。まず、受講希望者の多い教養教育科目の場合には、教室に学生が入りきらなくなるのを防ぐために事前の抽選を行うことになっている。安易な登録が増えれば増えるほど、その科目を本当に受けたい学生が抽選ではじかれる可能性が高まる。このほか、また平常の授業時にも、教官は印刷物をどのぐらいの部数用意すればよいのか見当がつかないなど問題は多い。 「0点制」を徹底すれば、無責任な履修登録をした学生の学籍簿には「0点」がたくさん並ぶことになる。外部に出す成績証明書は「修得した科目」についての成績だけしか記されないので、そのことで直ちに就職や大学院受験が不利になるわけではないが、学生にとって大きなプレッシャーになることは確かだ。また、将来、GPAのような形で、受講した科目の平均点が何らかの評価に使われるようになった時には、0点はもろに平均を下げることにつながる。 「0点制」実施の根本には、「お客様気分で授業を受けてもらっては困る」という考え方もあるように思う。履修登録をするということは、ある意味では教官との間に双方向の契約すること、つまり、教える側はその授業時間に誠心誠意指導を尽くすことを約束、受ける側はその時間にきっちりと出席し、質問し、きっちりと予復習することを約束、その間の信頼関係を確立する第一歩であると言える。 もちろん、教える側のあまりのいい加減さに愛想がつきて途中から授業に出なくなるということもありうるが、そういう時は、もっと攻撃的に教え方にケチをつけてもよいと思う。学生側からの授業評価の尊重を前提とした上で、受講生側にも責任を持ってもらうというのが「0点制」ではないかと考えている。今後の議論に期待したい。 |
【ちょっと思ったこと】
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【今日の畑仕事】
朝から会議が連続し、立ち寄れず。昼頃には雪が降る。 |
【スクラップブック】
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