じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
ヒヤシンス。つい最近知ったことだが、ヒヤシンスというのは、1つの球根から少なくとも2回、花を咲かせることができるようだ。茎の付け根から二番花が見えている。 |
【思ったこと】 _00313(月)[教育]『受験勉強は子どもを救う』か(4)マラソン代表選考と入学試験の公平性 2月18日の日記の続き。すでに国立大学の後期試験も終わってしまった。もともと受験シーズンに合わせたタイムリーな連載として始めたつもり。早く完結させなければ...。なお今回は、和田秀樹氏の著作とは直接関係ない話題。さて、各種報道によれば、日本陸上競技連盟は13日、シドニー五輪代表の残り2名を決定したという。この種の選考では、客観的な結果だけでなく、人(=連盟)の手による判断が介在するため、選ばれなかった候補やそのファンには常に後味の悪さが残ることになる。 4年前のことだったか、アメリカの200m競走の選考でカール・ルイスが外されたというニュースがあったように記憶している。候補者全員をそろえて予選を行えば、敗れた者も自分なりに納得できる。「メダルの獲得数にこだわるよりも、有力候補全員を揃えて同時に競い合わせ、その結果だけで代表を決めたほうがよっぽどスッキリするのでは?」とか、「選考基準の客観性・透明性を高めるべきだ」との声もあるようだ。 こうした問題は、より一般的な「公平」感に大きく関係している。大学入試(学力試験)でもこのことは最も重要な要素とされている。98年1月18日の日記の「ちょっと思ったこと」に書いたように、 センター試験で実施者や監督者がいちばん気を配ることは何か? 「受験生への最大限のサービス」や「思いやり」では決してない。正解は受験環境の平等・公平性、つまり「全国どの会場のどの座席でも同じ条件で受験できること」だ。このように、公平性は入学試験の実施にあたって最大限に尊重されなければならないこととされてきた。 ところが、近年、この「公平」についての考えを捉え直そうという動きが出ている。平成11年12月16日の中教審答申「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」の31頁には「『公平』の概念の多元化」という見出しで次のような記述が盛り込まれている。重要なところなのでその部分を以下に全文転載させていただく。但し、OCRで読み込んだため、一部認識ミスがあるかもしれない点をお断りしておく。 (3)「公平」の概念の多元化時間が無いので、この続きは次回以降とさせていただくが、上記の選抜方法の多様化の提言は、適した人材を選ぶという大学サイドの都合を考える上では大いに納得できる点があると思う反面、受験生に具体的にどういう努力目標を与えるかという受験生サイドから見た時には、かえって大きな不安を与えているように私には見える。 公平というのは、単に主観が入らないとか文句が出ない工夫をするということではなくて、もっと根源的に、努力をした者が、その努力に応じた結果を享受できるかどうかというところにあるように私は思う。 |
【ちょっと思ったこと】
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【今日の畑仕事】
ホウレンソウ、ハツカダイコンの種まき。大根とチンゲンサイの収穫(だいぶ花芽が出てきてしまった)。 |
【スクラップブック】
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