じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa


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[今日の写真] デージー(右)と、リビングストンデージー(左)。名前は似ているが、全くの別種。デージーはキク科でマイナス5度ぐらいまで耐寒性がある。リビングストン・デージーはツルナ科。霜にあたるとすぐ枯れてしまう。


4月4日(火)

【思ったこと】
_00404(火)[心理]『受験勉強は子どもを救う』か(10) 「原則堅持型人間」と「柔軟対応型人間」について考える(前編)

 4/3の日記で、 自由党の分裂に関連して、和田秀樹氏の『受験勉強は子どもを救う』(河出書房新社)から以下のような引用をした[p.111、2/14の日記参照]。
 シゾフレ人間にとっての首尾一貫とは、今の周囲の世界に合わせることであり、メランコ人間にとっての首尾一貫は、自分のそれまでの言動や、自分の常識、自分の秩序に合わせることなのだ。メランコ人間にとっては、それまでとってきた態度を平気で変えて、周りの言っていることに何でも合わせるシゾフレ人間の言動が非常にチャランポランに見えるだろうが、シゾフレ人間にとっては、それで首尾一貫しているわけである。
 政治家の場合は、議員個人の主義主張のほかに役職や選挙区の事情、支持者の意向などが複雑に絡んでくるので、「連立参加+保守党設立」という行動と、「連立離脱+自由党残留」という行動のどちらがシゾフレ型でどちらがメランコ型なのかは判断が難しいことだが、社会一般の諸々の行動特性を考えるにあたってこうした比較軸を設けること自体は大いに意義があるように思う。

 もっとも、和田氏が主張されている「メランコ」、「シゾフレ」という概念は精神医学用語を健常者の行動特性に転用したものであり
【分裂病と躁うつ病の2つが】人間の精神的な退行の行き着く果てだとすれば、人間のパーソナリティは分裂病に引かれやすい人と躁うつ病に引かれやすい人に分かれるはずである[p.82]。
が前提条件となっている。またこの区別の根底には
  • メランコ人間:心の世界の主役は「自分」。妄想のタイプが「自分は悪いことをしている」「自分は正義の味方だ」などとなる。
  • シゾフレ人間:主役は「周囲」。妄想のタイプが「周囲が自分の悪口を言っている」など)となり[p.82-84]、病的でないにせよ「自分のない」感覚が強い[p.99]。
という「世界の主役は誰か」に関しての明確な区別がある。

 しかし、社会一般の諸々の行動特性を考える比較軸を設けるだけであるならば、「メランコ人間」は「原則堅持型人間」、「シゾフレ人間」は「柔軟対応型人間」と置き換えれば済むこと。精神医学的な背景は必ずしも必要ないように思える。

 日常社会からいくつか例を挙げれば、
  • 嫌煙権を主張する人:
    • 「原則堅持型人間」:どのような会席でも、たとえ場が白けても禁煙の徹底を主張する。
    • 「柔軟対応型人間」:その時々の状況に合わせ、場合によっては、隣りでタバコを吸う人が居てもニコニコしている。
  • 君が代斉唱に反対する人:
    • 「原則堅持型人間」:入学式や卒業式で起立を求められても席を立たないし歌わない。
    • 「柔軟対応型人間」:押しつけには反対意見を表明するが、斉唱が行われる場面では起立して場の状況に合わせる。
  • 交通安全運動を推進する人:
    • 「原則堅持型人間」:車が一台も通らないような過疎地域の交差点であっても、赤信号の時には信号が青になるまで横断を控える。
    • 「柔軟対応型人間」:四方を見渡して安全が確認されれば、信号が赤でも横断する。
 行動分析的視点から見れば、「原則堅持型人間」とは、「特定のルールに一致した行動をすること」、あるいは「過去の言動や行動と整合性のとれた行動をすること」というように、自己のルールや過去に一致すること自体が強化的になっているような人間、「柔軟対応型人間」とは、周囲の状況に一致すること自体が強化的になっているような人間として捉え直すこともできる。この場合、好子(正の強化子)の所在が「自己のルール」か「周囲」かというように異なることは確かだが、世界の主役は誰かということまで想定する必要は無いし、人間の精神的な退行の行き着く果てが何かということまで論拠を求める必要も無くなる。

 「メランコ」vs「シゾフレ」と呼ぶにせよ、「原則堅持型人間」vs「柔軟対応型人間」という比較軸を設けるにせよ、和田氏も指摘されているように[p.115〜116]
  • 国が勃興期で、頑張れば頑張るほどいい暮らしができるが、頑張らないと貧乏しなければならない時代→メランコ人間が増える
  • 国が非常に貧しく食うや食わずの時代&非常に豊かになってみんなと同じでも食べていける時代→シゾフレ人間が増える
という可能性は確かにあると思う。行動分析的に言えば、一貫した努力に対してどういう結果が用意されているかの違いということになるだろう。勃興期や国の変革期には、立志伝や国の変革に命を捧げる行為が尊ばれる。経済が発展してくると、価値観が多様化し、「原則堅持型人間」はむしろ融通のきかない頑固者としてケムたがられるようになるということか。

 時間が無くなったので次回以降に続く。
【ちょっと思ったこと】
【今日の畑仕事】

チンゲンサイ、ハツカダイコン、ニンジン、ブロッコリーを収穫。
【スクラップブック】