じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa


6月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る
[今日の写真] 梅雨の中休みで快晴。アパート下の花壇では、ファリナセア(ブルー・サルビア)やビロウドモウズイカ(黄色の花)、ゴデチュアなどが花を咲かせている。3〜4月頃の花と違って、この時期に咲く草花は植えに向かって伸びる種類が多いように思う。すでに周りに草が生えているだめ、少しでも背を伸ばして、日の光を受けたり虫を寄せつけたりする必要があったためだろうか。



6月14日(水)

【思ったこと】
_00614(水)[心理]しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(その6):スポーツが楽しみとなるのは何故だろう

 昨日6月13日の日記で河川敷の利用についての話題からの連想として
このことで思うのが、公園敷地内のグラウンド、あるいは小学校の校庭だ。スポーツ振興のためには有用かもしれないが、結果的に、自然とのふれあいを求める子どもたちを締め出している。グラウンドがあることで、子どもたちの遊びは、結果的に自然から切り離された、運動や球技主体の遊びになってしまう。ボールが隅の草むらに転がっていったとしても、それを探しに来た子どもは、平気で花を踏みしだく.....。もし小学校にグラウンドが無く、代わりに花壇や「ミニ森林」があれば、子どもたちは昼休みや放課後に思い思いに自然とふれあうことができる。
というように、スポーツ重視への若干の疑問を提出した。ここで言いたかったことは、スポーツが子どもの教育上有害だということでは決してない。遊べる時間は限られており、その中で子どもは、自然とふれあうかスポーツ設備を利用するかという排他的な選択を常に迫られている。学校の敷地の大部分がコンクリートの建物とグラウンドで占められ、校庭の片隅に学年別の花壇やウサギ小屋がある程度の環境では、メインな遊びはグラウンドを利用した遊びに偏ってしまう。このことは結果的に、自然とふれあう形の遊びを選択する機会を奪っているということを言いたかっただけのことだ。

 さて、このことは別として、そもそも多くの人がスポーツに熱中し、仕事以上に生きがいを感じるのは何故だろうか? これまでの教育の中では、スポーツ奨励が無批判に受け入れられ、その効果については「集団行動になじませる」とか「積極性や根性を養う」といった精神論に終始するところが多かったように思う。では、スポーツが学業や仕事と根本的にどう違うのは、本当はどういうところにあるのだろうか。今日は時間の関係で、思いつくところをいくつか。
  1. 仕事の場合は、「○○をすれば給料が貰える」という「好子出現の随伴性」のほか、生活を支えるために「○○をしなければ仕事を失う」とう「好子消失阻止の随伴性」が強く働き、そのために義務感、束縛感が生じる。趣味で行うレベルのスポーツの場合は、いつ止めても生活困難になることはないので、スキナーの生きがい(幸福)の定義である「行動し、その結果として好子を得る」だけで強化されやすい。
  2. スポーツの場合は、やるべき行動(競技内容)と結果(自己記録や順位、勝敗など)の随伴関係が非常にスッキリしている。仕事の場合、特に企業労働の場合は、自分のどういう行動がどういう結果をもたらしたのかがはっきりしない場合がある。
  3. スポーツの場合には、行動の量に比例して結果を得る、つまり練習などの努力に応じて向上しやすいという環境がある。企業労働の場合、特に時間給の場合は、行動の量と給料は比例関係に無い。
  4. スポーツの場合は、自分の能動的な動きが行動内在的な結果をもたらしやすい。
  5. スポーツの場合には、仲間同士の連帯感、応援、努力への賞賛というように社会的好子が付加的に随伴しやすい。仕事の場合は、自分がいくら努力しても期待通りの成果が得られない場合が多い。
 こうして考えてみると、学校教育の中でスポーツを重視することは、「能動的な働きかけに具体的で確実で適正規模の結果を与える」という随伴性を保障するという点で大きな価値があることが分かる。それがうまく機能している限りは不登校の問題は起こらないし、スポーツ少年がおおむね快活で協調的で積極的に物事にチャレンジできるという点も理解できよう。しかしそうした事例をもって、スポーツになじまない子どもを無理やり参加させれば同じように快活にできるということにはならない。逆に不得意であることが露わになることによる劣等感、無気力、仲間はずれ等を生み出すこともありうるわけだ。学校教育の中で、勉強の弊害ばかりを強調するのは当たっていない。体育はもちろん、校庭グラウンドによって規定・制約されている遊びの機会がどういう効果をもたらすかについて、マイナス面を含めて固定観念を持たずに把握することが、イジメや不登校の防止に繋がるのではないかと思う。
【ちょっと思ったこと】

ワニやペンギンの鳴き声

 夕食時に見ていた「しあわせ家族計画」という番組の中で、50種類の動物の鳴き声を全部覚えるという課題に挑戦したパパが居た。ニホンザルの鳴き声をゴリラと間違えたところで残念ながら失格となってしまったが、50種類の内訳がなかなか面白い。牛や馬、犬、豚、ヤギといった分かりやすいものに加えて、ワニ、シマウマ、ペンギンまで登場。他の動物番組でもこういう動物の声を聞いたことは今まで一度も無かった。

 確かに、大概の動物には発声器官があるはず。無理やり押さえつければキューキューというぐらいの声を出すことはできるのだろう。ふだんそれが聞かれないのは、動物どうしの間のコミュニケーション手段として音声があまり重要な役割を果たしていないためであろう。それにしてもあそこで紹介された鳴き声はどうやって録音されたのだろうか。動物園のワニなどはいつ見ても殆ど動かない。恐竜の鳴き声再現という話題もあったとは思うが、爬虫類は全般にあまり鳴かないのではないかと思う。余談だが、いまアパート周辺では両生類のカエルが大合唱している。あれほど鳴かんでもエエのにと思うのだが。

「川の流れに身を寄せて」その後と吉野川可動堰


昨日6月13日の日記に関連して、某役人の方から情報をいただいた。以下にその一部を紹介させていただく[改行は長谷川のほうで一部改変]。
 建設省というか、お役人というのは、実は世論に敏感なんです。

 河川事業の場合は、「治水工事の需要が相対的に減った」ので「新たな事業の創出」の側面は否めませんが、他の事業に比べて先駆ける形で、自然環境保全・住民対話重視に向かっております。

 平成8年の河川法改正が、環境重視の方向を明確に打ち出しており、それまでの基本計画が「工事実施基本計画」という「工事の計画」であったのを、「河川整備基本方針」(環境保全も入っている)を、「学識経験者の意見聴取及び地域住民の意見を反映」させて、まず決める、という形に変更しています(現在各河川で方針の作成中)。

 よく「三面張り」というのが川を殺した、というので、役人主導の誤りのように言われますが、少なくとも大河川において、底までコンクリートで固めたのは(河床低下を防ぐ床止め工は別ですが)、ありません。ほとんどは、どぶさらいをする住民の要求に応えたもののはずです。(これは、コンクリート護岸を擁護しているわけではありません)

 河川敷のスポーツ公園も、当時のゴルフ熱に応えたものが多いのです。自然観察のために残せというのは、当時声として少なく、特に雑草が茂った場合、虫が繁殖してうっとうしいから早く除去しろ、という声の方が大きかったですし、川で遊んでガラスかなんかで怪我すると、「なんで立ち入り自由になってるんだ!」という風潮でした。

 それがここ10年で、「自然との触れ合い」とか「環境教育」とかが非常に重要視されてきて、それに(役所にしては素早く)のっかった、というところです。
 どうもありがとうございました。この点でやはりいろいろと考えさせるのが吉野川可動堰をめぐる住民投票だ。本年1月25日の日記でもふれたように、この可動堰をめぐる反対派の論点は、必ずしも自然保護が主目的ではなく、むしろ公共事業のあり方、あるいは地元住民を無視した決定のあり方を問うたものであったように思う。投票に参加した大部分の人も、日頃から吉野川流域の自然保護運動に取り組んでいたというわけではなさそうだ。この点では、昨日とりあげた多摩川の自然を守る活動とはちょっと性格が異なっていたように思う。

【今日の畑仕事】

サラダ菜、タマネギ、インゲン、キュウリを収穫。ナスを初収穫。
【スクラップブック】