じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

1月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る

[今日の写真] 1/24朝の日の出(7時19分撮影)。元旦の頃に比べると、方角が東南から東よりになってきたことが分かる。写真右は、1/2の7時29分に撮影のもの。 [今日の写真]



1月23日(火)

【思ったこと】
_10123(火)[教育]21世紀の大学教育(1)カリキュラムに求められる大学の教育力(1)

 東京・八王子の大学セミナー・ハウスで行われた大学教員研修プログラムに参加した感想を書こうと思う。じつは、この研修は10日ほど前に行われたものだが、他の行事や、日記ネタ山積のため、執筆をついついprocrastinateしてしまった。備忘録を兼ねて日記を執筆している私の場合、これは精神衛生上あまりよくないことだ。といって、日課の枠を崩してまで執筆時間を延長するのも好ましいとは思わない。1月のように、後期授業のまとめ、修論査読、卒論執筆指導など膨大な仕事を抱えているなかでは、バランスをとることはなかなか難しい。

 さて、研修ではまず大学セミナー・ハウスの館長から「大学の教育力〜カリキュラムに求められるもの〜」というメインテーマについて基調講演があった。その中では
  1. 設置基準大綱化以降、教育課程(カリキュラム)という考え方が出てきた。
  2. カッコ書きながら「学部教育」に「学士課程」という言葉が入れられるようになった.
  3. 国立大学の大学案内には理念が記されていない。私立大には理念が記されているものの、その通りの教育が行われていない場合がある。
  4. カリキュラムには大学の公益性を示す社会的契約という側面がある。教員の学術的関心のみから展開するものではない。
  5. これまでは、入学者に自己学習能力があることを前提にしてきたが、これからは、自己責任能力、自己表現能力を養う教育が必要。
  6. こうした教育をおろそかにして大学院重点化を進めると、大学生の抱えていた問題が大学院に持ち越されるだけになってしまう。
という点が特に参考になった。特に4.の「大学の公益性」に関しては、国立大学の場合、授業科目名までは配慮しても、授業内容については担当教員の良識に委ねることとして、同じ講座内であってもいっさい口出ししないという風潮があった。これは、学問の自由を守るという点では評価されるところもあるが、カリキュラムの整合性の観点からは、聖域としては扱えない側面もある。またこれまでは担当教員の研究分野に依存して履修コースの教育内容の特色が打ち出されることが多かったが、全入時代ともなれば、それだけで済ませるわけにはいくまい。教員個人の教え方についての授業評価ばかりでなく、カリキュラムの公益性についても評価が行われることになるだろう。

 続いて、4人の先生からの話題提供があった。最初の話題は、「個性的なカリキュラムをめざして」というテーマで、最近、短大から四年制大に改組された大学の学長から、設置認可にあたって克服しなければならなかった諸問題が語られた。

 この大学で新しく設置された「国際文化学部」では、新しく、協働という理念が打ち出された。これは一言で言えば「一緒に働く」ということであり、英語では「service」を当てはめている。従来、この種の学部の理念としては、「異文化理解」や「共生」がキャッチフレーズに含まれることがあった。しかし
  • 異文化理解→これだけでは「分かればいいだろう」に終わってしまう
  • 共生→冷戦時代のような「敵対しながらの共生」もありうる
という問題が残る。「協働」はこれを補い発展させるために必要な概念だ。

 この大学では、イギリス、ネパール、ミャンマーなどでの一カ月の海外フィールドワークを義務づけているという。といっても、大学の公的な学外研修として実施する場合には、あまり危険な活動には参加させられない。実態は現地の日本語学校で教育補助を行うという内容だったが、それでも、パッケージツアーや議員団の視察とはワケが違う。学生にとっては貴重な体験になるようだ。ここでは、学術知に加えて、「体験知」や「経験知」を身につけることができる。余談だが、「けいけんち」という言葉を聞いた時、私は最初「経験知」ではなく「経験値」を連想し、RGB型のビデオゲーム用語がとうとう大学教育に登場するようになったかと思ってしまったが、どうもそうではなかったようだ。

 このほか、学生側の学ぶニーズに合わせて、2年制(短大)、4年制(通常の四年制学部教育)、6年制(学部・院一貫)という3タイプのカリキュラムを用意しているというところにも特色を感じた。長くなったので、次回以降に続く。
【ちょっと思ったこと】