じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 帰宅時、西の空に月齢5.0の月と金星が見えた。ちなみに、この一週間ほどは、金星の右下(日没時の高度で金星の高さの半分弱の位置)に水星を眺めることができる。



1月29日(月)

【思ったこと】
_10129(月)[心理]和田秀樹氏の『痛快!心理学』と行動分析(2)日本人は「和の民族」か

 昨日の日記の続き。昨年10月に刊行された『痛快!心理学』(和田秀樹、2000年、集英社インターナショナル、ISBN4-7976-7022-3)については、いずれ時間ができた時に細かく論評させていただく予定であるが、ひとつだけ、第10章の中で余談として取り上げられた“日本人は「和の民族」か”について、先にふれておきたいと思う。

 昨年12/20の日記にも記したように、「日本vs欧米」という比較軸を持ち込んで複雑な現象を分かりやすく説明しようという試みは多方面で行われている。そのなかでしばしば指摘されるのが、
  • アメリカ人は個人主義。競争好き。
  • 日本人は「和をもって貴しとなす」「すぐに群れをなしたがる」「集団の中で目立つことを好まない」
という特徴だ(一部、和田氏のp.177の表現を借用)。

 これに対して和田氏は、アルコール依存症の人たちの断酒法に日米で違いがあることをひきあいに出しながら、全く逆の仮説を提示しておられる。その論点を長谷川のようで要約させていただくと、
  • アメリカ人のほうが「みんなと同じでいたい」と思い、日本人のほうが「他人と違う自分でいたい」と思っているのではないか。
  • アメリカ人は、肌の色も文化背景も違う人たちに囲まれて生きることによって、つねに「自分は他人と違う」ということを感じるため、自然に「他人と同じ自分でいたい」と望むようになる。
  • 日本人は、自分と同じ顔をした人たちばかりの世界で生きることによって、逆に、 心の中では「他人と違う自分になりたい」と切望しているのではないか。
  • 本質的にはアメリカ人のほうが横並びでいることのほうに安心感を覚え、日本人のほうは他人と違うことで満足する国民だと解釈したほうが、理屈に合う。
  • アメリカが競争社会で日本は護送船団の横並びの国であるという現実は、「放っておくと○○になる」というバランスへの回帰として説明できる【緑字部分は、長谷川の表現】。アメリカのほうは放っておけば「みんなと同じ」横並び社会になってしまい、弊害が大きくなるので「他人と競争することが美徳である」という倫理を教え、日本のほうは反対に、そのままでは他人を蹴落とす競争をし始めるので、「和を大切にしなさい」と教えているのではないか。
  • もし、日本人が本質的に和を大事にする国民ならば、そもそも「和の大切さ」を教える必要はない。ところが実際には「協調が大切だ」と繰り返し言っているのは、日本人のほうが本質的に競争好きであるため。
 和田氏はさらに、日本人のほうが嫉妬心は強烈である点、アメリカのほうが特定の価値観や意見への一致が生まれやすい点などを挙げて、アメリカ人は意外に「みんなと同じになってしまう国民」であることを強調しておられる[以上p.177〜178]。

 私個人はアメリカで生活したことが無いので、指摘されたような「みんなと同じでいたい」傾向がアメリカ人一般にあるのかどうかは確証が持てない。アメリカで長年留学や駐在生活をされた人であっても、その生活環境は特定の階層との交流に限られているであろうから、どの程度まで客観的に把握できるのか、定かではない。

 日本人がみな似たような顔をした人たちばかりの中で住んでいることは確かであるとしても、江戸時代までの身分制度、あるいは家柄から解放されたのはほんの3〜4世代前のことにすぎない。そういう意味で、「同じだから違いを求める。だからバランスを保つために和の大切さを教える必要が出てくる」という論法には、まだまだ論拠が足りないように思われる。

 ともあれ、和田氏が、日本人についての固定観念を覆すようなクリティカルな視点を提示されていることは大いに意義があるように思う。ただ、1/18の日記で日本人についてのイラショナルなビリーフを紹介させていただいたように、しょせん、「日本人は○○だ」とか「西欧人は○○だ」という主張は、お互いに反対事例を並べ立てるだけの水掛け論になってしまい、ステレオタイプな見方を、別のステレオタイプな見方に取り替えるだけの繰り返しに終わってしまうように思う。

 ではどうすればよいか。要は、「○○人」一般の行動傾向を画一的に論じるのではなく、「○○人」が住む社会において、どういう随伴性(法律や道徳・倫理などのルール、習得性好子たる価値など)が優位に働いているのか、という方向に議論を進めることであろう。ある種の行動傾向が「○○人」に多かったとしてもそれは「○○人」の本質ではない。外から作用する要因が別にあって、「その結果として特定の行動傾向をもたらしている」と考えるべきだと思う。