じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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1月30日(火)

【思ったこと】
_10130(火)[社会]「参審制」?/「無作為」信仰の誤謬

 1/31の朝日新聞によれば、“政府の司法制度改革審議会は30日、重罪事件の刑事裁判を対象として、事実認定から量刑に至るまで市民と裁判官が一緒に判断する「参審制」のような形を軸に検討をすすめる方向で意見がまとまった。”という。

 “裁判官のプロとしての経験と一般市民の持つ社会常識といったそれぞれの長所を生かしながら、一緒に判断するのが望ましい”という趣旨は大いに結構だと思うが、重罪事件の事実認定に一般市民が関与するというのはちょっと奇妙な感じがする。

 刑事事件の事実認定で最も重要なことは「無罪の人を有罪であると認定する」誤謬を絶対に避けつつ、「真犯人を無罪であると認定する」誤謬の確率をできる限り下げることにあるはずだ。そのさいに求められるのは、認知バイアスを取り除いた純粋な科学的な判断であり、それは、「誰が判断しても同じような結論に至る」という客観的なプロセスであるはずだ。それが一般市民の持つ「社会常識」を加えることで「補正」されるとしたらまことに奇妙なことである。

 量刑判断に一般市民が関与することにも多少の疑義がある。「国民に開かれた裁判」というと聞こえはよいが、同じ程度の犯罪を犯しても市民の怒りが高ければ死刑に、市民が同情すれば有期刑になる可能性も出てくる。これでも「法の下での平等」と言えるのか、奇妙なことだ。

 もう1つ、裁判に参加する市民の選任方法については、「無作為に抽出すべきだ」という点で意見がまとまったというが、「無作為」であることは、「誰もが同じ確率で選ばれる可能性がある」という点で「公平性」は保障されるが、決して「代表性」を保障したことにはならない。ここでは統計学についての難しい議論は避けるが、簡単に言えば、「無作為」に選ばれた人たちの結論と、仮にその問題について(母集団たる)国民全員の意見を聞くことができた場合に得られるであろう結論の一致度が一定レベル以上で確率的に保障されなければ「代表性」があることにはならないのである。

 例えば「国民の間で最も人気のある男性タレントは誰か」という問題は、国民全員に聞き取り調査を行えば確実に結論を引き出すことができる。ここでは仮に「北野たけし」がトップであったとしよう。ところが無作為に抽出された10人に同じ質問を出した場合、時には「さんま」が、また別のグループでは「所ジョージ」がトップに選ばれたとする。無作為抽出自体は公平性を保障しているが、全数調査との不一致が起こるということは、代表性は保障されていないことを示している。

 ではどうすればよいのか。代表性を保障するためには、新聞社の世論調査のようにかなりの数のサンプルを集め、かつ選び方もいろいろな年齢層や職業層から国民全体の比率に合わせて抽出していかなければならない。上記の「参審制」でそんなことを行うのは到底不可能だろう。結局のところ、今回言われているような「無作為抽出」は、「国民からも意見を聞いているのだからこれ以上文句を言うな」という「文句を言わせない手段」に使われてしまう恐れもある。

 「教育改革国民会議」のように、著名な作家やスポーツ界の代表が加わっているとそれだけで国民各層の意見が代表されているような錯覚を起こすこともある。実際にはそこでは、個人体験の過度の一般化がまかり通っているのだが....。このさい、無作為抽出についても統計的な意味をもういちど考え直したほうがよいのではないかと思う。

 「国民に開かれた裁判」という趣旨自体は大いに結構だと思うが、「参審制」がその実現方法として本当に有効かどうかははなはだ疑わしい。それよりも、検察段階での起訴・不起訴の透明化、裁判段階での情報公開、裁判官の「良心」を絶対化せず判決に対する多面的な外部評価を高めることに重点を置くべきではないかと思う。もっとも、殺人事件などの刑事裁判では被害者遺族や被告自身の人権を守る必要も出てくるだろう。むしろ、国民全体にとってより関心の高い違憲訴訟、環境裁判、政治家の汚職などの問題で実現をはかるべきであろうと思う。

 なお、以上は、新聞で伝えられた内容に基づく感想。誤解があればご容赦ください。