じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
ニゲラの実。「黒種草」という和名で知られるが、毎年、この場所では、全体に白いカビのようなものがついてしまう。「白種草」とでも呼びたいくらいだ。もっとも、繁殖には影響がないらしく、そのまま種がこぼれ、毎年、同じ規模で生育している。 |
【ちょっと思ったこと】
4月2日生まれは留年? 6/6の朝日新聞岡山版によれば、岡山市は5日、幼稚園と保育園で入園年齢の基準日が異なることによって4月2日生まれの子どもの扱いに矛盾が生じている点について、基準日を幼稚園と同じに統一するよう国や県へ提言すると発表した。 記事によれば、年齢計算の基準日は、文部科学省所管の幼稚園が「3月31日」時点の満年齢、厚生労働省所管の保育園は「4月1日」の満年齢と定められている。また民法により、満年齢は誕生日の前日と定められているため、4月2日生まれの子どもは、幼稚園なら4歳児、保育園なら5歳児のクラスに入れられることになる。さらに、小学校は「3月31日」時点の満年齢を基準とするため、5歳児のクラスに入った保育園児は、翌年にもう1年間5歳児に通わなければならないという矛盾を生じるのだという。 この記事でよく分からないのは、幼稚園「3月31日」、保育園は「4月1日」という記述。もしこの通りだとすると、幼稚園入園者のほうが上の学年に入れられるはずだ。幼稚園「4月1日」、保育園「3月31日」の誤植ではないかと思うのだが、いかがだろうか。どなたか情報をいただければ幸いです。 この話は、だいぶ前、Web日記作者の間でも話題になったことがあった。細かいことは忘れたが、要するに、「4月2日に6歳の誕生日を迎える人」と「4月2日に満6歳になる人」は同義ではない。民法の規定により、「4月2日に満6歳になる人」というのは4月1日に6歳の誕生日を迎えた人という意味だ。なお、「早生まれと遅生まれとどっちが得か」については98年1月24日の日記と、98年1月27日の日記で考察したことがあった。 今回の話題は4月2日生まれの子どもだけに限られた話であるが、ほんらい、子どもの発達のスピードというのは、年齢だけで一義的に決まるものではない。ゆっくりと発達することと、発達障害とは全く別。ゆっくりのほうが大物になる場合だってある。それを、行政上の都合でむりやり学年に振り分けてしまうことのほうが問題。もっと柔軟に対応し、例えば、その年の1月1日生まれから6月30日生まれの子どもについては、子どもの精神的・身体的発達の度合いを客観的に判断し、親の意向も取り入れながら、早い学年に入れるか、1年先延ばしするかを選択できるようにするというのもアリだと思う。但し、その前提として、「早く進学したほうがお得」という固定観念を打ち破る必要がある。上掲の過去日記でも書いたが、特に幼少期においては、同じクラスの中で、他の子どもより体が大きく、よく理解できる子どものほうが、リーダーになりやすいという可能性もある。とすると、無理に上の学年に入れてみんなの後を必死でくっついていくよりは、ゆとりをもって下の学年に入れたほうが、長い目でみて本人のタメになるかもしれない。もちろん、これを徹底するには、科研費や在外研究員の若手枠やら定年退職の基準も、満年齢ではなく小学校入学年度で起算する必要が出てくると思うが...。 [※6/7追記] いつもお世話になっているhyoukokuさんから、以下のような情報をいただいた。転載させていただく[一部省略、改行位置は長谷川のほうで改変。 年齢計算ですが、厳密にいうと法典としての「民法」の規定ではありません。「年齢計算ニ関スル法律」によっています(ただこの法律で、一つの重要な修正を除いては民法によっていますが)。どうもありがとうございました。さらにhyoukokuさんから 98年1月4日の日記に飛んで見た余談ですが、その日記ではという追記をいただいた。重ね重ねありがとうございます。 |
【思ったこと】 _20605(水)[一般]舟木一夫「高校三年生」を思い出すわたし みのもんたさんの「今日は何の日」によれば、6月5日は、舟木一夫の「高校三年生」のレコードが発売された日だという。こちらや、こちらで解説されているように、この歌は、1963年に発売、半年余りで100万枚を突破という大ヒットになった。 番組によれば、この歌は、丘灯至夫さんが、当時、東京・世田谷の松蔭高校のグラウンドでフォークダンスを興じる生徒たちにご自身の青春時代を重ね合わせて作詞。作曲家の遠藤実さんは、当初はワルツ風のメロディを考えたがすぐに変更。今のような快活なメロディになったという。 番組によれば、この歌は、高校の卒業に合わせて4月に売り出す予定であったが、日本コロムビアの内部で「こんなものは流行歌じゃない」という声が出ていったんはお蔵入りに。その後、反対派がクラウン・レコードに移籍するなどのゴタゴタがあって復活し、2カ月遅れで世に出ることになったという[その経緯はこちらに詳しい]。 1963年と言えば私はまだ小学校5年であったが、父親が都立高校の教師をしていたことなどもあって、家の中でもよくこの歌を聞いた。まだカセットの無い時代であったが、録音テープには私が声変わり前に歌った「高校三年生」がちゃんと録音されている。おそらく、私がちゃんと歌詞を覚えた最初の歌謡曲ではなかったかと思う。 「高校三年生」が大ヒットした背景には、当時の進学事情もあったと思う。手元の資料によれば、1963年当時の18歳人口は、中卒[定時制(夜間)高校進学者を含む]の社会人が78万人、高卒で社会に出る人が72万人、大学・短大への進学者が27万人。いっぽう、2001年度は、中卒の社会人が18万人、高卒で社会に出る人が60万人、大学・短大への進学者が73万人となっている。つまり、当時はまだ大学・短大への進学は珍しいことであり、中卒、あるいは高校を出て就職という人が多数を占めていたのである。まして今のようにケータイでどこでも話せる時代ではない。高校を卒業することには、離ればなれになって、社会人として身を立てるという特別の気持ちが込められていたのだと思う。 番組では舟木一夫氏ご自身も登場した。こちらの記事と同様、「『高校三年生』にめぐり合えてこの上なく幸せであると同時に、3分02秒という短いこの1曲が、1人の男の一生を完全に決めたという恐ろしい歌でもあります。」と語っておられた。確かに、この歌が無ければ、芸能人としての舟木一夫は存在しなかったかもしれない。しかし、この歌が大ヒットしすぎたために、彼は否応なく「青春歌謡」路線を突っ走ることになった。ま、芸能界というのはこういう運命的なものか。 さて、番組が終わってから、さっそく妻の前で「高校三年生」を歌い始めてみたが、「赤い夕日が校舎を染めて、楡の木陰に」の次の歌詞が突然思い出せなくなってしまった。
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