じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

2月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る

成田→福岡便の機上から見た富士山火口。羽田から岡山行きの便でも富士山頂の真上を通るが、高度が違うせいか、それともその時の気象条件によるのか、この写真よりはやや低い所を通るようだ。2000年2月13日撮影の写真と比較してみると違いが分かる。


2月2日(日)

【思ったこと】
_30202(日)[心理]トンデモ世界のリテラシー(2)「偶然」をどう捉えるか

 昨日に続き、2月4日に行う講演の構想。この種の話をする時にいつも思うのだが、90分間の講演は、15回30時間の講義より遙かに難しい。講義の場合は、時間が無くなっても翌週に持ち越すことができるので、毎回の時間配分にはそれほど気を使わなくて済む。ところが、90分1回限りとなると、その中でゼッタイにまとめ上げなければならない。一発勝負なので、よほど論点を整理しないと、何も残らなくなってしまう。

 そこで今回は、「偶然」をどう捉えるかに焦点を絞って、話を展開してみようと思う。こうすれば「トンデモ世界」のタイトルを掲げても偽らずに済む。「トンデモ世界」では、たいがい、偶然が非偶然として言いくるめられてしまうからだ。そればかりではない。トンデモ本やそれに納得してしまう読者は、偶然に対する態度そのものに誤りがあるように思う。このことを今回の講演の結論にしようと思う。





 ところで統計の入門書などでは、「偶然」は必ずしも十分に説明されていない。また日常社会では、いろいろな形で使われている。思い付くままに挙げてみると...
  1. 一定の確率で生じることが知られているという条件のもとで、ある事象が実際に起こったときにそう呼ぶ。特に自分や身内でそれが起こった時に、かつ能動的に対処できない時に「偶然」であったと呼ばれる。それらはしばしば「運・不運」と呼ばれ、また、確率が極めて小さいときは「奇跡的」とか「あり得ないことだ」と呼ばれ、確率が1に近い時は「当然」などと言われる。
  2. 一定の確率で生じることが知られているという条件のもとで、ある場面での起こり方に、未知の要因が新たに関与している可能性が無いと判断すること。
  3. 因果関係が不明、あるいは予測不能な時に、リスクの見積もりなどに扱う。
  4. 小さな要因が無数に関与している時に、簡便もしくは迅速に予測・制御するために、それら全体の関与の度合いをノイズとして処理する。
  5. 母集団の性質を知る場合。コストや破壊。
  6. 無作為な割付により特定要因の関与を実験的に確認する場合。
といった具合になる。

 これらをもう少しまとめてみると、
  • 物理学における基本粒子のように本質的に不確実な現象を扱うのか、それとも、現象そのものは決定論的だが便宜上確率現象として扱うのか
  • すでに起こった出来事の原因をどう捉えるのか
  • 全体を知ることが困難な時に、標本から推測するのか
  • 邪魔だが排除できない種々の要因の影響を均等にするために、わざわざかき混ぜるのか
といった場合で、それぞれ「偶然」の扱いは違ってくると思う。




 時間の関係で、これらすべてを論じることはできない。ここではとりあえず、すでに起こった出来事の原因を調べる場合について考えてみよう。

 例えば、心理学講座1回生の学生(15人)の中で灰色の好きな人数が3年前の5人から10人に増えたとする。これは標本ではなく全体についての事実なので、「増えた」かどうかを改めて統計的に検定するには及ばない。しかしこのことは“世の中が不況になったために灰色が好まれるようになった”という主張の根拠にはならない。5人から10人に増えた原因は無限に近い数の要因の寄せ集めの反映であるかもしれない。この場合は、やはり「偶然」が最も有効な説明原理であり、それを打ち破る主張をするためにはもっといろいろな証拠を集める必要がある。
単なる偶然(偶然の一致)こそが、しばしば最も有効な説明原理である。
という指針はこういう時に当てはまるのである。

 しかし、すべての出来事について「これは偶然だよ」で納得してしまったのでは何も発見できない。「偶然だ」というのは、最終的な説明ではなく、むしろ、研究の出発点において採用すべき作業仮説なのである。かつて、血液型性格判断論議の文章を書いた時にも繰り返し強調したのだが、トンデモ世界の人たちは、どうもこのあたりで誤解(もしくは曲解)しているようだ。次回に続く。