じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[写真] 成田〜福岡便(1/6搭乗)の機上からの景色の続き。今回は、木曽御嶽、乗鞍、北アルプス方面。御嶽の頂上付近の噴気活動も眺めることができた。


2月13日(木)

【ちょっと思ったこと】

居眠り病

 昨日の日記でNHK「ためしてガッテン 必見!オトナの快眠術」のことを書いたが、ちょうど今週は、NHKのにんげんゆうゆうのほうでも、シリーズで睡眠障害の話題を取り上げていた。木曜日はナルコレプシー、俗に“居眠り病”とも呼ばれている。

 私のような仕事をしていると、すぐ思い浮かべるのは授業中の学生の居眠りである。他大学に非常勤講師に行くとこういう学生をよく見かける。私の場合、授業中の私語は他学生の迷惑になるのでゼッタイに許さないが、居眠りは学生の自己責任となるので殆ど放任している。いつだったか、わずか9名ほどの授業をしていたところ、居眠りを始めた者が続出。ついには、目を覚ましている者が、3人、2人、1人...と減り、最後の一人が目を閉じかけた時には、いったい私は何をしているんだろうとすっかり自信を失ったことがあった。もっともこういう居眠りはナルコレプシーとは言わない。学生が不真面目であったか、私の授業が難解かつ単調であったか、どちらかであろう。

 番組サイトにも記されているように、本当のナルコレプシーになると、電車内で寝過ごしたり、商談中に居眠りを始めるなど、御本人にとっては深刻な問題がおこり、場合によっては職を失うことさえあるという。そういえば、大学の教員の中にも稀にナルコレプシーの症状をもつ人が居て、入試監督の最中に居眠りを初めて受験生から「いびきがやかましくて問題が解けない」という苦情が出たことがあったというウワサを聞いたことがあった。また周囲の理解が足りないために、一般には「たるんでいる」、「怠け者」、「緊張感に欠ける」といったレッテルを貼られやすい事情がある。

 番組で「なるこ会」のサイトが紹介されていたので、さっそくアクセスしてみた。世間では知られていないようないろいろな悩みがあるようだ。その苦しみを知れば、授業中の居眠りを咎められた時に「じつはナルコレプシーなんです」などという安易な言い訳はできないであろうと思った。但し本当に授業中のナルコレプシーで悩んでいる人は、遠慮無く相談に来てほしい。

【思ったこと】
_30212(水)[心理]「自然と人間の共生」研究会(2):日本文学、中国哲学からのアプローチ

 少し遅くなったが、2月10日(月)に行われた学長裁量経費によるプロジェクト“自然と人間の共生:「環境」と文化・文明・歴史”公開研究会の報告の続き。

 午後4番目は、日本文学のW氏による「万葉人と自然〜かざしとかづら〜」という発表。W氏は国内でも万葉集の権威として名が知られている。今回は、「かざし」と「かづら」が登場する歌を中心に取り上げ、自然と同じ格好をしてみせることで末永く栄えることを願う意味についての解説であった。

 取り上げられた歌としては、例えば、
  1. 青柳のほつ枝よじ取りかづらくは君がやどにし千年寿くとぞ
  2. あしひきの山の梢のほよ取りてかざしつらくは千年寿くとそ
  3. 山吹の花の盛りにかくのごと君を見まくは千年にもがも
 このうち1.は、解説者諸氏の間ではあまり評判の良くない歌であるという。また2.は、いくつかの解釈があるが、W氏によれば、天皇の代理として「給ふ」歌であるとか。いずれにせよこうした歌では、人を山や老木に見立てて、枝の先端や宿り木などを「かざす」ことにより繁栄を願うという心が詠み込まれているらしい。これは、「感染呪術」というより「もどき」に近いもの、というか、「感染呪術」自体が「もどき」に由来するものということらしい。このあたりのことは教養が無いのでよく分からなかった。

 このあと、日本ではもっぱら樹木が詠われるのに対して、動物は殆ど登場しない。アイヌなどの歌では逆に動物がたくさん登場するという指摘があった。このことでふと思ったが、熱帯地方のジャングルに住む人たちの場合は、樹木にも動物にも精霊がやどるという考えがあったと思う。基本はやはり、農耕か狩猟か採集かという違いを反映するのだろう。

 発表を聞いて、もしかして、「かざし→かんざし」、「かづら→かつら」という由来になるのではと思ったが、恥ずかしいので質問を差し控えた。そのうちこっそり聞いてみようっと。




 ひき続いて行われた午後5番目は、中国哲学がご専門のK氏による「朱子の自然観」という発表。朱子学と言えば、日本では江戸幕府における体制維持の思想という印象が強いが、これは、時の権力者によって都合のよい部分が利用されただけにすぎない。またこのことを含めて、いろいろ誤解されている点が多いという。

 K氏はまず、「自然」という概念がどちらかと言えば名詞ではなく、副詞的、形容詞的に使われていること、それは天地万物にある統体性への直感であり、日本語では「ひとりでに」に近いニュアンスであるということを指摘された。ここでいう「統体性」とは、空間的な意味合いの強い「全体性」に対して、時間的な意味を強く含む概念である。

 さて、K氏の解釈によれば、朱子の思想は一言で言えば「働き」の哲学である。その基本的な概念を私の理解した範囲で備忘録代わりに記せば、
  • 霊=一次的な力、妙=バランス、神=目に見えないほどのすばやさ
  • 鏡=金属塊に内在する能力。
  • 元=めばえる、享=のびる、利=結実、貞=実が落ちて次の春を待つ。この「元享利貞」に対して人間は「仁礼義知」。
  • 事と物=「働き」と「場」
となる。ちなみに、朱子の思想は理と気の二元論だとよく言われるが(2001年3月21日の日記参照)、K氏によればじつは、形(体)・気・理からなる三元論であるという。このほか、人間の関わりはfifty-fiftyの状態をよき側に傾けていくことであり、これが「参←三?」につながるというような話があったが、よく分からなかった。

 こういうお話を伺って何よりも強く感じたのは、いまの日本では、こうした東洋的な自然観が紹介される機会が殆どないということである。確かに、分析的で実証性を重んじる西洋の科学を重視することで産業社会は飛躍的な発展を遂げた。しかし、自然と人間を全体的、W氏の言葉を借りれば「統体的」にとらえる思想については、あるいは東洋のほうがはるかに優れていたのかもしれない。じっさい、病気は「ひとりでに」治るのが基本であり、環境は「ひとりでに」浄化されなければならないのである。

 もう1つ、朱子の自然観は「モノではなくコト」を基本としているという点も興味深く拝聴した。このあたり「英語はモノ、日本語はコト」と関連があるのだろうか。別の機会にK氏に伺ってみたいと思う。




 発表会ではもう1件、日本語学のY氏による

●「語の意味分析記述に関する思案essai(「私案」への出発点)〜「自然」概念に関する、記述、あるいは文節・分析、を巡って〜

というケッタイなタイトルの発表があった。話が長くなりそうなので明日以降に続く。