じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
成田〜福岡便(1/6搭乗)の機上からの景色の続き。今回は小豆島上空。 |
【ちょっと思ったこと】
「主体的」な改革とは「自分たちの都合を考えた改革」/合意形成からの解脱 さいきん、学部内の会議で、最初から支持が得られないとわかっていても、あえて強硬な意見を述べることが多くなった。浮いてしまうのは目に見えているのだが、安易に妥協したくはない。スジを通したほうがストレス解消にもなる。 こういう乖離が生じてきた最大の理由は、独立行政法人化を目前にして、学部内の世論の大勢が常に、自己保身、痛み分けや棲み分け、自己都合を優先した公平性ばかりにこだわるようになってきたためだと思う。 大学は、自給自足の山村ではないのだ。閉じた社会であるならば、内部の合意形成だけで土地を分割統合し、棲み分けをはかることができるだろう。しかし、教育機関としての大学の主人公はあくまで学生、院生である。改組したら教員の仕事がどう変わるかではなく、改組によって、入ってくる学生がどのように教育され、どのように社会に出て行くかを最優先で考えなければ意味がない。そういうことを後回しにして、「自分たちで決められる」最後の機会だと言ったところで、それじゃあまるで、自分たちの都合だけで決められる最後の機会だと言っているのと同じではないか。 最近ますます強く感じるのは、組織内部における「正義」と、組織の役割を優先した「正義」は同じではないということ。内部における正義で重んじられる「合意形成」というのは、結局は自己都合の摺り合わせを超えることができない。部局長・評議員・委員長も、内部構成員の多数派として選ばれる限りは、そのしがらみから抜けきることができないであろうと思う。 というような経緯から、「もはや合意形成は何ら美徳ではない」ということを悟るとずいぶんと気が楽になるものだ。ま、近い将来、自己都合ばかりを優先し外への説明責任の努力を怠る抵抗勢力があれば、かならず敗退していくに違いないと確信している。 |
【思ったこと】 _30220(木)[心理]日本健康支援学会(6)高齢者のQOLの維持をめざした予防的健康支援 昨日の続き。今回は2日目午後の「健康支援とQOL〜高齢者を対象とした具体的展開に向けて〜」というセミナーについて。この企画は、財団法人日本予防医学協会西日本支部の共催で市民公開講演会「第10回ヘルスサイエンスセミナー」として行われた。司会は下方浩史氏(国立長寿医療研究センター)、話題提供は
新開氏はまず高齢者のQOLを構成する要素として、
歳を取ることで一番問題となるのは、QOLの基盤としての生活機能の低下である。その低下には階層性があるのだが、面白いことに、
いずれにせよ、我々は、事故死や突然死にならない限りは 要支援→要介護→死亡 というステップをたどる。その過程で手段的自立(IADL)が障害される予知因子を見出し、予防的な健康支援を行うことが必要であると理解した。 質疑の際にも話題になったが、多変量解析で得られた予測関係の中には、血清アルブミン別の生存率などのほか、「中高年女性では、コレステロールが高いほうがむしろ生存率がよい」というような意外な結果も含まれていた。 この種の統計で多少疑問に思うのは、予測にすぐれたファクターが見つかったとしても、それが本当に因果性を示しているのかどうかということだ。例えば、気圧計の針が下がると雨の予測はできる。しかし、干ばつが続くときにその針を無理矢理下げたところで雨が降るわけではない。私が中高生のころ「背の高い生徒のほうが学業成績がよい」などと新聞の雑誌広告に書かれてあって、背の伸びない私はムッとしたことがあったが、この場合も、仮に相関があったからといって、背を伸ばせば学業成績が向上するとは考えにくい。おそらく、上記のコレステロールの場合なども、共通原因が別にあるものと推測される。 要するに、ある種の生理的指標などを調べて「○○が高いほど生存率がよい」という結論が得られたとしても、直ちに「○○をふやすと生存率がのびる」という結論には至らないということだ。毎日のように流される健康食品情報も同様であり、「○○を食べている人は健康だ」ということと「○○を食べたら健康になれる」は別物だろう。 このほか、手段的自立を高めることには大いに意義があるとしても、一日の大半をリハビリに費やすことが生きがいをもたらすとは限らない。何か目ざすものや、楽しみとして強化されるものがあった上で、それを維持する手段として体力等の維持がはかられるべきであろう。 |