じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] [今日の写真] 今年の1月に移築が開始された岡大・旧事務局[旧日本軍第17師団(大正14年廃止)司令部・歩兵第33旅団司令部]のリフォーム工事がようやく完成に近づいた。リフォームといっても、内部には鉄骨が組み込まれ、外装は左の写真上のように洋館風に張り替えられている。今後の活用が期待される。
右の写真は黄葉さかんな楷の木の下からの遠景。


11月9日(日)

【ちょっと思ったこと】

開票速報は視るだけ時間のムダ

 11月9日は総選挙の投票日であった。17時半頃に夫婦で投票に行った時には結構たくさんの人達が来ていて、記入台が満杯になるほどだった。もっともその割には投票率は前回選挙の62.49%を下回ったという。前回の選挙の時の2000年6月25日の日記に書いたような「ファジーな投票」方式を導入すれば、投票率はもう少し上がるかもしれない。

 ところで、投票日の夜はおきまりの開票速報番組ばかり。岡山で視られる地上波7局のうち、NHK教育を除く8局が特集を組んでいた。それだけ視聴率を稼げるのだろう。

 しかし、これって本当に意味のある番組なのだろうか。選挙というのは最終結果だけが意味をもつものだ。野球やマラソンと違って、途中経過は何ら努力のプロセスではない。いろいろな開票所の集計のスピードを反映して、順位が変動しているにすぎない。開票途中で、「A候補をB候補が激しく追い上げ、大逆転した」などということがあっても、それは単にB候補の地盤の開票が遅れたことを意味しているにすぎない。そういう偶発的な変動に一喜一憂するのは時間のムダだ。この日は20時以降はTVのスイッチを切り、いつも通り22時頃に就寝、翌朝5時台のニュースで最終結果を知ることができた。

 今回の結果は、「与党、絶対過半数確保」、「民主党躍進」、「共・社は激減」で特徴づけられるそうだが、比例区での当選数が自民69に対して民主72、しかも、特に、関東(東京を含む)、東海、近畿で民主が自民を上回っていることを考えると、次回以降の政権交代が大いにありうるように思える。もっとも、両党の間にはイデオロギー上の対立があるわけではない。それぞれの党の中に、保守派もいればリベラルもあり、親米派もいれば主体的な日本を重視する人もいる。経済についても、市場原理を標榜する新古典派経済理論が台頭する一方で、それに抵抗する勢力や、ヨーロッパ型の社会民主主義をめざす勢力もある。

 小選挙区の中では有権者の選択肢は限られており、多様な意見が議員を選ぶという形で反映されることはない。むしろ、アメリカの大統領候補選びのように、大政党内部における主導権争いの中でそれらが選択されていくことになるのだろう。

【思ったこと】
_31109(日)[教育]鹿大FD研修会(1)KJ法を用いたワークショップ/「コウギ」は「講議」だった

 鹿児島大学で行われた「FDワークショップ」に講師として参加させていただいた。講師であったとは言え、むしろ教えてもらうことのほうが多かった。ここでは、一般性のある内容に限って感想を述べさせていただこうと思う。

 鹿大(「かだい」と読むそうだ)で行われているFD研修は、「ワークショップ」という名前の通り、参加者全員の作業を重視した内容にある。作業はいくつかのチームに分かれて行われ、しかも各チームには「task force」と呼ばれるスタッフが配置される。スタッフは前日より準備を行い、しかも、日程終了後には総括もする。このあたりの統率のとれた進行はなかなか見事だった。岡大でもFDの研修会は実施しているが、これまでは、全体講演と、話題提供・指定討論・質疑からなる分科会というように形が決まっていた。ワークショップ形式にすれば参加者全員が確実に作業に加わることができ、得るところも大きいのではないかと思った。

 このワークショップでは、文殊カード型のKJ法が取り入れられた。チームのメンバーには、ミシン目のついたカードが配られる。そして例えば、学生が主体的に勉強に取り組まないのは何故かというテーマが与えられた場合、各メンバーは、ミシン目の一番上に記入者名と思いついたアイデアを記す。そして、そのカードを別のメンバーにまわしながら、すでに書き込まれた内容を参照しながら、ミシン目の下のエリアにアイデアを書き足していくのである。こうして何度か繰り返した後、模造紙の上にミシン目を切り離してバラバラに置き、討論をしながら似たものの「島」を作っていく。さらに島を関連づけたり、系統的に並べたりしながら、全体の意見をまとめていく。それをOHPに要約して意見として発表するという手順であった。

 7日夜に行われたワークショップの中では、喋りっぱなしの授業が多い理由や影響、FD活動への学生参加などがグループ別に協議された。そんななかで一番スゴイと思ったアイデアは、

●「コウギ」は「講議」

であった。言うまでもなく、「コウギ」は正しくは「講義」と書く。その「義」に敢えてごんべんをつけることで、双方向的な授業を意図しようというアイデアであった。

[今日の写真]  そう言えば、私が岡山に転任した頃、文学部の各教官研究室のドアには、行き先を示すプレートが貼ってあった。ところが、業者が間違えたのであろう。古いプレートはすべて「講議中」というように「義」にごんべんがつけられており、誤字を気にする先生は白ペンキなどでその部分を消していた。一方そのままになっている先生もあった。しかし、今考えると、双方向的な内容が充実した「講義」は、むしろ「講議」と書いたほうが特色が出ていたよろしいのではないかと深く感銘を受けた。




 その日の講評として申し上げたことでもあるが、上記のようなKJ法は、
  • 全員の発想が貧困であったり固定観念に縛られていたりすると、何人で何回繰り返しても奇抜なアイデアは出てこない。
  • 全員が知識不足である場合に集団で実施しても、新たな知識の創造にはつながらない。
  • 「島」を作る際、「似たもの」は一次元軸では定まらないケースが出てくる。
  • 「企画者は何をさせようとしているのか」→「どう答えれば企画者の期待を満たすことができるか」...というように発想していくと、本音はあまり出さず、「優等生的な答案作り」に落ち着いてしまう恐れがある
 「KJ法だから万能」などではなく、結局はニーズ(要請)に依拠して分類基準や対立軸を定め、常に発想の転換に心がける必要があるかと思う。ま、いずれにせよ、メンバー全員の主体的な参加が求められるという点では非常に大きなメリットがある。話題提供・指定討論・質疑からなる分科会方式では、聞きっぱなしという参加者が出てくる恐れがあるからだ。



 その日の講評として私は、上に挙げたKJ法のメリット、デメリットのほか
  • 双方向的な授業がうまくできない原因を学生の無気力に求め、双方向でないことの影響として学生が無気力になることを挙げると、ニワトリが先か卵が先か、に陥ってしまう。どこで悪循環を断ち切るのかを示すことが必要だ。
  • 「今の学生は○○だから」というように学生の性質を固定してしまうのは禁物。学生に足りない点があるならそれを補いつつ、学生を変えていく必要がある。
  • 双方向授業というのは、何も授業時間内だけの話ではない。予習・復習指導や、質問等へのフィードバックも重要な方策に含まれている。
  • 双方向授業の一環としてTAの活用も大切。但し、日本では、TA集団に対する研修が行われておらず、カリキュラム上もTA中心の演習授業がセットされていないなどの問題がある。
などを指摘させていただいた。次回に続く。