じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] レスパール藤ヶ鳴」でお風呂を楽しんだあと、岡山空港と市内を結ぶ道路沿いの販売所4箇所をめぐり、味比べのために桃を購入。今が出荷の最盛期。地元の農家が直売しているものはかなり安い。4種類の桃を2個ずつ4列に並べてみた。あなたならどれを選びますか? 価格を知りたい方は、以下の部分を反転させてください↓↓↓

左の列から順に、
  1. 清水白桃。「試食してください」と、タダで貰った。
  2. 白鳳:1個200円
  3. 白鳳:1個50円(多少、キズ有り〜
  4. 白鳳:1個100円
同じ桃でも、箱詰め贈答用になると1個2000円以上にもなる。なお、4列目の桃は、かつてヘールボップ彗星の前景として撮影させていただいた桃畑付近で、農家の方が直接売っていたもの。


7月19日(月)

【ちょっと思ったこと】

野沢雅子さん、声優40年

 朝食時にNHKホリデーインタビューを視た。この日のゲストは「“永遠”の少年」 野沢雅子さんであった。

 野沢さんと言えば、ゲゲゲの鬼太郎(鬼太郎)や銀河鉄道999(星野鉄郎)の声優として知られる。ネットで検索したところ、こちらに出演リストがあった。

 番組によれば、野沢さんはもともと舞台俳優をめざしていた。しかし当時は、これは赤だと言われれば、黒い物でも「はい、これは赤です」と従わなければならない時代。本人の希望に反して、次第に声優の仕事ばかりがやってくるようになったという。

 声優とはどういうものかについて、野沢さんは
  • 顔を出す役者は自分をさらけ出して演技。自分が命。
  • 声優は、あくまで向こうのもの(アニメの登場人物)に命を入れる。
と語っておられた。確かに、鬼太郎も鉄郎も、野沢さんの声によって命が吹き込まれている。しかも、鬼太郎と鉄郎では全然別人の声として聞こえてくるから大したものだ。

 さて、声優の個性が強く出ていると思う番組として頭に浮かぶのは、「ひょっこりひょうたん島」のドン・ガバチョ役の藤村有弘さん、「刑事コロンボ」の小池朝雄さんなど。「刑事コロンボ」などは、小池さんの声のほうがピーターフォーク自身よりコロンボらしい。その分、声優が変わると別人のように思えてしまう。

 いっぽう、「サザエさん」のカツオの声優が交代したということは、言われてみなければ全く気づかない。台詞があまり多くないせいだろうか。


【思ったこと】
_40719(月)[一般]永平寺 104歳の禅師

 「レスパール藤ヶ鳴」のレストルームで、NHKスペシャル「永平寺 104歳の禅師」の再放送(元の放送は6月12日)の一部を視た。永平寺の78代住職、宮崎奕保(みやざき・えきほ)禅師(104歳)の語りを中心とした番組であった。なお以下、お言葉の引用は長谷川の記憶、もしくは、ネット検索からの孫引きに基づく。いずれ、再度放送される機会があったら、ちゃんと録画して、正確なお言葉に修正させていただこうと思っている。

 さて、ちょうど、番組を視始めた時のお言葉。

●スリッパを脱ぐのも座禅の姿。日常生活のすべてが座禅。まっすぐでなければ心があらわれている。

 隣に座っている妻に「ほれ、こっちを視ないか。冷蔵庫の中も座禅だ。まっすぐでないから、期限切れ食品で満杯になるんだ」と言ったが、妻は裏番組に熱中(このレストルームには3台のテレビがあり、座席の音声切り替えで好きな番組を視られる)。

 門前のお店の人たちを前では禁煙について興味深いお話。はっきりした言葉は覚えていないが、

●私も若い頃、タバコを吸っていた。タバコをやめたいと思って決意するがなかなかやめられない。そこで同じようにやめたいと思っている仲間と3人組を作って、吸ったら罰として50銭払うことに決めた。しかし2日と続かない。そこであるとき、ご本尊に誓いを立てた。もし今度、タバコを吸ったら、どうか私の命を奪ってくださいと。そうしたら命が惜しいので、二度と吸わなくなった。何かをやろうと思ったら、何事も命がけでやってください。

という内容だった。このあたりは、パフォーマンスマネジメントの極意として大いに参考になる。但し、行動分析の本では、宗教的コントールは、相当に信心がある人でないと、例外や言い訳ばかり作ってうまくいかないと指摘されている。

●真理を黙って実行するのが大自然。誰にほめられるということもおもわんし、報酬のことも考えないし、時がきたら花が咲き、そして黙ってほめられんでもすべきことをして黙って去っていく。そういうのが実行であり、教えであり、真理だ。

 これは付加的強化随伴性についての批判とも言える。もっとも、そこで言われる「実行」には、能動や、行動内在的な結果は含まれていないかも。私自身は、付加的随伴性は絶対悪ではなく、行動内在的随伴性への橋渡しをする有用なツールであると考えている。

 番組のそれより少し前のところで、69歳の時に肺結核を患い、3年4カ月の入院生活を送られたことがあった。それに関連して、

●正岡子規の「病状六尺」という本には「人間はいつ死んでもいいと思うのが悟りだ」と述べられているが、実はそれは間違い。平気で生きているのが悟りだった。生きていることは難しい。死ぬときが来たら死んだらいい。平気で生きておるときは、平気で生きておったらいい。

 このあたりは「活きるための心理学」にも役立てられそう。仏教というととかく葬式仏教(←かくいう我が家も、いちおう、曹洞宗で葬式をやっている)、よりよく死ぬことばかりを考えているように思うが、実は「今を生きる」ということに本来の目的があるのかもしれない。

最後のほうで、

●私が永平寺や。私は宮崎奕保やけど「永平寺さん」と言われたら「はい」言うんや。永平寺と私はひとつや。自分くらい大事なものはない。自分くらい大事なものはないけど、人はどうでもいいのではなくて、環境もみな自分やから、永平寺を大事にすることは自分を大事にすることや

 このお言葉は、たぶん「滅私奉公」精神とは異なり、「私人も公人も無い、世界と一体となった生き方を示しておられるのだろう。世界にとっての好子(正の強化子)と自分自身にとっての好子を同一化させるということだ。但し、ここでは付加的な好子は含まれない。

●自然は立派やね。私は日記をつけておるけど、何月何日に花が咲いた。何月何日に虫が鳴いた。ほとんど毎年違わない。規則正しい。そういうのが法だ。法にかなったのが大自然。法にかなっておる。だから、自然の法則をまねて人間は暮らす。人間の欲望に従っては、迷いの世界だ。真理を、黙って実行するというのが大自然だ。

 このあたりに関しては、私自身は、人間の欲望も自然の法則に含まれていると考えている。迷いの世界をもたらすのは、人間の欲望に原因があるからではなくて、欲望達成の手段が一人歩きして、欠陥だらけの強化システムをこしらえてしまったことにあるのではないか、と思っている。