じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 30日夜は、岡山市旭川で花火大会が開催された。台風10号の接近で、大会開始の直前に黒雲が押し寄せ、開催は絶望的かと思われたが、19時半頃に、奇跡的に雨があがった。雨のおかげで、最高気温36.8度の暑さは、一気に27度台まで下がり、まさに天然のクーラー効果。写真は、アパートのベランダから撮影したもの。花火の右側は29階建てマンション。花火はそれよりずっと後ろ側で打ち上げられており、その大きさが分かる。


7月30日(金)

【思ったこと】
_40730(金)[一般]「オッカムの剃刀」のオッカム

 金曜日1コマ目は、私が担当する「心理学講読II」の最終試験日であった。少し前の話になるが、この授業で使った教材の中に「オッカムの剃刀」という言葉が出てきたので、その時に考察したことを忘れないうちにメモしておきたい。

 そもそものきっかけは、教材の訳注に
[訳注]Occamが提出した科学的データの処理法に関する原理。複雑になりがちな説明をなるべく省き、明快簡潔な理論を採用するという原理で、節約の法則とか簡単な原理と呼ばれる。これを動物心理に適用したのがモルガンの公準である。低次元の心的機能の産物と解釈できるものを高次元の心的機能の産物と解釈してはならないという原理。
と書かれてあったことだ。私が以前から疑問に思っていたのは、「オッカム」というのは人の名前なのだろうかということ。

 ウィキペディアには、
オッカムの剃刀(オッカムのかみそり; Occam's Razor)は、13世紀の神学者オッカムが考えた哲学主題。
現代でも、科学理論を構築する上での基本的な指針として支持されている。
「ある事柄を説明するのに、必要以上の仮説を立ててはならない」というのがそれである。
言い換えると、
「現象を同程度うまく説明する仮説があるなら、よりシンプルな方を選ぶべきである」
というように説明されている。しかし、同じ事典でオッカムを調べると
オッカムのウィリアム(William of Ockham, 1285年 - 1349年)は、フランシスコ会会士、後期スコラ哲学を代表する神学者・哲学者。イングランドのオッカム村出身。しばしばオッカムとのみ言及される。なお没年には異説もある。
となっており、「オッカム」は出身村の名前であって姓ではない。同じウィリアムでも、ShakespeareやWilliam Jamesにはちゃんと姓がある。なぜ、オッカム村のウィリアムには姓が無いのだろうか。




 さて、オッカムの剃刀についての詳しい解説はこちらにある。そこにはいろいろな解釈が紹介されているが、科学者にとって最も役に立つ形は、次のようになるという。
「 まったく同じ予言をおこなう2つの理論が手元にあったときには、単純なほうの理論が、よりよい理論である。 」
 これに基づけば、惑星の見える位置は、天動説でも地動説でも予測ができるが、もし天動説のほうがシンプルであるなら、真実に反しても天動説を採用するほうがよい理論ということになる。実際には「周転円」概念(こちら参照)導入などにより天動説のほうが複雑になってしまうが、日常の24節気などは、今でも天動説風の表現を用いている。

 ところで、最初に取り上げた訳注は、スキナーの『科学と人間行動』の訳本に記されたものであった。じつは、スキナー自身は、オッカムの剃刀を無批判に受け入れているわけではない。スキナーは『科学と人間行動』第17章の私的出来事に関して
One is still free, of course, to assume that there are events of a nonphysical nature accessible only to the experiencing organism and therefore wholly private. Science does not always follow the principle of Occam's razor, because the simplest explanation is in the long run not always the most expedient. But our analysis of verbal behavior which describes private events is not wholly a matter of taste or preference. We cannot avoid the responsibility of showing how a private event can ever come to be described by the individual or, in the same sense, be known to him.
もちろん、経験している生活体のみが近づきうる出来事であるために完全に私的である非物理的な性質を持った出来事が存在すると想定するのは差し支えない。科学は、オッカムのかみそり(Occam's razor)の原理に常に従うとは限らない。というのは、最も単純な説明が、長期的に見て最も得策とは限らないからである。しかし、私的な出来事を記述する言語行動の分析は、それをするのが好きだからというのではない。私的な出来事が、どのようにしてその個人によって記述されるようになるのか、あるいはそれと同じ意味でその個人に分かるようになってくるのか、ということを示す責任を避けることはできない。【訳は、翻訳書による】
と述べており、原書の本題から外れるが、オッカムの剃刀に関しては「.....the simplest explanation is in the long run not always the most expedient./最も単純な説明が、長期的に見て最も得策とは限らない...」という見解を表明している。

 「オッカムの剃刀」に関しては、他に、

●金谷武洋 (2002). 日本語に主語はいらない〜百年の誤謬を正す. 講談社.

という本の中で何度か使われていることが私の記憶に残っている。
  • 本章のこれまでの考察で,英文法などで目安とされる動詞の自他の区別の定義は日本語ではまったくあてはまらないことが分かった。無理にあてはめようとすると,文法を重くしたり,逃げ腰の定義付けをしたりしなくてはならなくなるのである。オッカムの弟子を自任する我々としては,それは避けるべき事態であろう。
  • 日本語では「通る/通す」「出る/出す」といったような対立のあるもののみを自動詞/他動詞と同定すべきだ,ということだ。それこそが日本語に即した自動詞/他動詞の定義であり,英文法からの勇気ある脱却,離陸である。英語や仏語の定義とはまるで違ったものであるが,実に明解,簡潔だし,何よりも日本語に即している点でオッカム先生も大満足だと思える。
 もっとも、チョムスキー先生は、ヒゲをはやしておられないようだ。いっそのこと、オッカムの剃刀で頭をツルツルに剃ってしまうべきか。