じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] [今日の写真] ボリビア南部の山岳地帯を抜けてウユニ塩湖南方のサンファンに近づいた時、ポトシとチリを結ぶ鉄道の線路を越えた。この時期には異常とも言える大雨(一部みぞれ)で、線路の両側は水浸しになっていた。

翌日、ウユニ塩湖を訪れた時も、固まった塩の上に雨水が数センチほどたまっており、その上を四駆で水しぶきを上げて走った。

 少し前の「千と千尋の神隠し」という映画に、水没した線路の上を電車が水しぶきを上げて走るシーンがあった。現実にはあんなことは絶対にあり得ないと思っていたが、ここに挙げた2つの景色を重ねれば、ここならそんなことがあっても不思議ではないという気分になってきた。

 ひょっとして宮崎駿監督も、ウユニ塩湖からの連想で、ああいう光景を描いたのだろうか。


9月12日(日)

【思ったこと】
_40912(日)[心理]日本質的心理学会第1回大会(2)KJ法創始者からナマのお言葉をいただく

 日本質的心理学会第1回大会の感想の2回目。午前中開催の大会シンポの後半は、いよいよKJ法創始者の川喜田二郎氏のお出ましであった。

 やまだようこ氏の企画主旨(アブストラクト集13頁)にも書かれてあるように、KJ法はGTと同時期の1960年代に発表された方法論であるが、「技法」や「技術」として広く普及した一方、「学問の方法論として理論的、概念的に練り上げてアカデミックな場で議論されることは少なかった」という側面を持っていた。

 実際、私の教室の卒論や修論でも、「KJ法により分析した」などと書かれてあっても、その内容はマチマチ。インタビュー記録を紙片にまとめて自分一人で分類整理したという場合もあるし、3人でディスカッションして島を作る場合もある。また、昨年秋に別の大学のFD研修に参加した時にも「KJ法」が使われたが、この場合は、ミシン線の入った紙片にグループ内のメンバーが順に書き込むという形で、発想を引き出す手段として使われていた。

 そういう意味でも、KJ法の創始者である川喜田二郎氏からナマの声をお聞きし、種々の誤解を解消し、次世代の手で継承し発展させる意義は大きいと思われる。

[今日の写真]  さて、大きな拍手に迎えられて会場にお出ましになった川喜田氏は、84歳というご高齢にも関わらず(こちら参照)、しっかりした口調で、まず、「三大科学方法論の時代」という講演をされた(右の写真は、左から川喜田二郎氏、やまだようこ氏、戈木クレイグヒル滋子氏。右端は川喜田二郎氏の奥様で、補足説明をされているところ)。その概略は、
  • まず文字ができた(文字を最初に作ったのは、今のイラクに近いシュメール)。
  • それから書斎科学が長く続いた。
  • その後、実験科学が生まれできた。これは定量的分析が中心。
  • そして今、野外科学ができつつある。野外科学の仕事場は「どこでも」。定量的・分析的である必要はない。
  • 野外科学とともにKJ法を併用。
という内容であった(あくまで長谷川の聞き取った範囲。以下も同様)。そうして、この野外科学の研究は、分析よりも総合を重視し、現実生活に対して総合的視点から
  • おのれはなぜ生きがいを求めるのか(存在理由)。
  • 仲間同士で納得ができる。
  • 自分の行動に納得できる。
という点を明らかにしていくものである。




 川喜田二郎氏のお話はまだまだ続きそうな気配であったが、時間の関係で、後半は、やまだようこ氏の「翻訳」と「補足」のもとに「KJ法図解化の核心」という総合討論が行われた。

 このセッションで、これは大切だと感じたことが2つあった。

 1つは、KJ法というのは、要するに、問題解決のための方法であるということだ。質的心理学の研究は、しばしば、単なる「理解」や「解釈」、せいぜい「問題発見」や「仮説生成」に終わってしまうところがあるように見受けられるが、KJ法の核心は、問題解決まで指向しているという。このあたりはたぶん、企業研修などで、KJ法を学ぶ場合とGTを学ぶ場合の達成目標の違いに表れるのではないかと思うが、この方面の実態は知識が無いので何とも言えない。

 2つめ、これはきわめて重要だが、KJ法というのは「思い込みで現実をはめ込んでしまうことを避ける」ために考案された手法であるという点だ。

 ネパール山地の技術協力の場合でも、伯耆大山の山村でもそうだと思うが、何らかの必要があって、現場の声をなるべく多く、ありのままに聞き取る必要があったとしよう。この場合、最初から、思い込みがあって取材をしている人、あるいは、何らかの政治目的に利用しようと考えている人が取材しても、集められた声は都合の良いように取捨選択されたり、固定的な概念の枠でむりやり分類されてしまう恐れが大きい。そして、これを打破する唯一の方法がKJ法であるというわけだ。

 確かに、いくら客観的手法や効果測定が必要だと言っても、現場の限られた状況のもとでは「参加者への聞き取り」が唯一の方法ということだってありうる。その時に、思い込みを避ける最善の方法はKJ法ということになりそうだ。少なくとも私には代替の方法が思い浮かばない。

 川喜田氏自身のお言葉によれば、KJ法の過程で思い込みを避けるためには、あまり大きな「島」を作らないことが大切であるという。最初から大きくまとめようとするのは思い上がりであり、はめ込みに繋がる。概念的ではなく情念で集めるほうがよく、2〜3枚ずつ、慎ましく集めることが肝要。

 じっさい、本人が思いこんでいる限りは発見などあり得ない。この「慎ましさ」は大事であると思った。

 このほか、川喜田氏は、単にKJ法で図解化で終わるのではなく、それを文章化することの大切も強調された。図解化とは要するに一目で空間的にとらえることであり、文章化により時間的な系列化がはかれるのである。

 さらに、一匹狼(どの島にも属さないデータ)を残すことの大切さ、反対のものも集めることで「反対であることがわかれば合意でき」仲良しになれることの意義なども主張された。

 それからもう一点、これは、川喜田二郎氏の奥様の補足説明の中で強調されたことだが、KJ法というのは、本来はラウンド6まで行うことで真価を発揮するもの。ところが、ふつう、質的研究では、ラウンド2(現状把握ラウンド)までしか行われていない。KJ法の分類がすでに概念先行になっているのではないかという疑問が生じるのは、各ラウンドにより「心の転換」があることを知らないためではないかというようなご指摘であった。





 総合的討論の最後のほうではGT紹介者の水野節夫氏と戈木クレイグヒル滋子氏から質問が寄せられた。その中では、部分情報からおのずとabductionということはあり得ない、「いつの間にか飛ぶ」ということはどういうことなのかについて意見が交わされた。このあたりは、私自身も、KJ法とGT両方に関して大いに疑問に思っているところである。行動分析で前提とするような「行動随伴性」あるいは、種々のニーズ(研究への要請)ということなくして分類や概念化はありえないのではないか、いくら「虚心坦懐」などと言ったって、何の枠組みもなしに事物をとらえることなど不可能ではないかと、私自身は思っているのだが、このあたりの疑問は、今回の討論を拝聴しても解決しなかった。

 次回に続く。