じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] [今日の写真] 海外ニュースによれば、ハリケーン「Ivan」が猛威をふるっており、ジャマイカやキューバで被害を出しているという。
先日のアンデス旅行では、帰路、ラパスからコロンビア、ジャマイカ、キューバの真上を通ってマイアミに向かった。幸いなことに、この時はハリケーンは発生しておらず、美しい珊瑚礁と、エメラルド色の海を楽しむことができた。
写真左はキューバ南部の海岸線。右は、キューバの北部の美しい珊瑚礁。

余談だが、アメリカのニュースでは、ハリケーンの風速は時速表示が一般的なようだ。CNNのネットニュースでは「Cubans are feeling the effects of Hurricane Ivan as the storm spins 135 kilometers off the island's western tip, bringing heavy rain and winds of 260 kph. 」などと表現されている。


9月13日(月)

【ちょっと思ったこと】

富士山頂の天気はいつも「不明」

 9月14日朝のNHK気象情報によれば、富士山測候所が先月26日から無人化。これにより、今年から初雪の発表が無くなり、また、晴れや曇りといった天気の観測もできなくなったという。

 中学の頃に地学・天文・気象のサークルに属していたこともあって今でも高速道路運転中などににラジオの気象通報を聞くことがあるが、富士山の天気というのは「各地の天気」の一番最後に伝えられ、お馴染みの場所であった。今後は「天気不明」と表現されるのか、それとも通報項目自体が外されてしまうのだろうか。

 ところで、富士山測候所の無人化というのは、気象衛星などを利用した観測技術の進歩と、有人観測のための人件費・維持費を削減するための必要上やむを得ないことであるとは思うが、「人が居ないと天気が分からない」というのはちょっと妙な気がする。

 というのも、羽田から岡山や九州方面への飛行機は、富士山頂上空のすぐ北側を通過するからである。山頂に雲がかかっているか、すっきり晴れているかというのは、右の窓際に座っている人なら誰でも見て取れる。晴れか曇りかぐらいだったら、衛星写真からでも十分観測できるように思う。

 「天気」が有人でないと観測できない理由はたぶん、晴れか曇りかという情報以外に、「地吹雪」や「砂塵あらし」(こちら参照)など、雲量だけで決められない現象を「天気」に含めているためであろうとは思う。下の質的研究と重ね合わせて見ると、「天気」というデータは、一部は質的、その一方で、雲量という量的データから判別される「晴れ」と「曇り」というような便宜上のデータが混在していて興味深い。

【思ったこと】
_40913(月)[心理]日本質的心理学会第1回大会(3)質的心理学プラスアルファの問題

 日本質的心理学会第1回大会の感想の3回目。午後13時20分から15時20分までは、3つのシンポジウムが併行開催された。
  • シンポジウム1:他者との出会い 教育のフィールド─出会いを記録する
    秋田喜代美・鯨岡峻・佐藤公治・箕浦康子
  • シンポジウム2 :質的研究はいかに『科学的』たりえるか?─医療・看護領域の研究に学ぶ
    斉藤清二・ 西村ユミ・香川秀太・川野健治・松嶋秀明・西條剛央・荒川歩
  • シンポジウム3 :記念日と記念碑
    寺田匡宏・今井信雄・渥美公秀・矢守克也
 私はこのうち、シンポ1に参加した。

 シンポではまず、鯨岡氏の「子どもの発達を表す」という話題提供が行われた。鯨岡氏はまず、ご自分の学生時代を振り返り、当時、京大文学部の園原太郎教授の客観主義的な発達心理学に疑問を持たれたことに言及され、現象学的精神とともに、「素朴にいきいきと」、「からだに感じてくるものを排除せず」、「事象をあるがままに」という姿勢で子どもたちに接することの大切さを説かれた。

 鯨岡氏の視点に基づく「質的」あるいは「現場(フィールド)」の定義づけは、「質的心理学者」の多くが受け入れている前提とはかなり違ったもの、というか、かなりの「プラスアルファ」を要求することになる。さらにまた、研究者倫理においても、インフォームド・コンセントの手続を潜ったか否かの議論を越えた厳しい自己規律が要求されることになる。

 鯨岡氏の御主張、特に「現場の息吹」という言葉に象徴される接し方に、非常に大きな人間愛、客観心理学には無い暖かみのようなものが感じられるのは確かだ。鯨岡氏の御氏名と「自閉症」といったキーワードをセットにしてネット検索すると、障害児教育への計り知れない影響力を実感することができる。

 もっとも、鯨岡氏の御主張は、行動分析学の理論に基づく指導、あるいは、養護学校の存立に関して、種々の議論を巻き起こす内容を含んでいる。このことについては、質的研究を離れて別の機会に論じたいと思うが、このシンポのディスカッションでは敢えて次のように発言させてもらった。
 人間理解については多種多様なアプローチがあってよい。現象学的アプローチもあるし、小説家や映画監督もそれぞれの視点から人間理解につとめている。
 しかし、障害児教育や高齢者福祉の問題を考えた時には、我々はしばしば、あるサービスを導入するか、続けるか、中止するか、別のサービスに変更するか、といった判断を迫られるのも事実である。
 その際には、好むと好まざるに関わらず、再現性や反証可能性を重視した効果測定は避けがたい。客観性を抜きにして、どうやって結論を出せるのか。声の大きい人が勝つのか、あるいは、どの主張が共感を呼んだかだけで決めてしまってよいものか。
 障害児とその親、あるいは、介護者と被介護者の関係性がものすごく大切なことは十分に理解できるが、そうは言っても、ある個人が別の個人の人生のすべてに関わることはできない。いくら相互に依存関係があったとしても、個々の人生はみな独立しており、程度の差こそあれまずは自立し、主体的・能動的に環境に関わることが求められる。

 種々の福祉サービスというのは、対象者が主体的・能動的に関わるための環境づくりをサポートするところに留まるのであって、それ以上を求めてしまったら共依存ということになりかねない。また、いくら障害(碍)児指導場面で個人との関わりを重視すると言ったところで、一個人が10人、20人と個別に関わることには時間的に限界がある。いろいろ議論はあろうが、私自身はそんなふうに考えている。