じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
農学部東西通りの銀杏並木。根が張っているためか、風圧を受けにくいためか、小枝がちぎれることはあっても、台風23号による倒木被害は全く見当たらなかった。 |
【ちょっと思ったこと】
平成教育委員会2004の時計問題と振り子問題(1) 夕食後の散歩から戻ったところ、「2004平成教育委員会 学問の秋スペシャル」が終わる直前だった。最後に出題された時計問題と振り子問題は、両方とも間違えてしまった。 ネタバレとなるので、ここからあとは下の方に書きます。問題をご自分で解きたい方は、番組サイトのほうを先にご覧ください。 純白に輝く天空の湖 11月3日の夕刻、TBS系で「これが世界の超絶景」(18:55〜19:54)という番組が放送されていた。8月に旅行したボリビア・ウユニ塩湖が紹介されるということで、DVDハードディスクに録画しておいた。 翌日朝にチェックしたところ、ギニア高地やアイスランドをおさえて、第一位に「純白に輝く天空の湖」としてウユニ塩湖が選ばれていることが分かった。確かに、日常世界から想像もつかないという点では、ウユニ塩湖には他所を圧倒する魅力があると思う。 番組で多少気になったのは、ウユニ塩湖上の「塩のホテル」(こちらの23番から28番)である。あのホテルは現在は環境上の理由で売店のみの営業となっており、湖岸に新しいホテルを建設しているところだった。いつ頃撮影した映像を放送しているのかと思って検索したところ2001年6月3日放送の記録が見つかった。日比野克彦さんの活動年譜にも同じ記録があることからみて、どうやら3年以上前の映像のようだ。ま、ボリビアの自然風景そのものは10年前でも3年前でも3カ月前でもそんなに変わらないとは思うが、TBSもずいぶんと制作費を節約したものである。 なお、番組では、ウユニ塩湖のほか、ダリの岩やコロラダ湖も紹介していた。こちらのアルバムにもあるように、私が訪れた時のコロラダ湖は、それほど赤くはなかった。 平成教育委員会2004の時計問題と振り子問題(2) 時計問題は、長針と短針が重なるのは、毎時間1回。よって、0時から翌日0時までで25回、このうち、スタート時(0時)と終了時(0時)は「長針が短針を追い越す」のではないので2回分を除外すると23回になるはずだと思ったが、実際は21回にすぎなかった。長針が短針を最初に追い越すのは1時5分すぎ、最後に追い越されるのは10時55分まえとなるので、短針が2回まわるあいだに各10回で計20回、それに加えて、真ん中の0時の時に1回追い越すので、合計21回と計算するのがよさそうだ。 なお、元の問題では、「午後0時から次の日の午後0時までの24時間で、長針が短針を何回追い越すか答えなさい。」となっていたが、「午後0時」という呼び方は誤解を生みやすい。こちらにあるように、もし正午のことを言うのであれば、明治五年太政官布告三百三十七号(改歴ノ布告)に基づき、「午前12時」と呼ぶのが正しいらしい。 次に、振り子問題のほうだが、私は、赤と青の振り子が同じように揺れるのかと思ってしまった。解答では、「赤が持っていた運動エネルギーが次第に青に移っていくということです。そして全てが移ると赤が止まり、青が最大に振れることになります。」と説明されているが、なぜ赤のエネルギーがゼロになるまで青に移るのか(なぜ、赤と青が同じエネルギーの状態で平均化されるようにならないのか)ということが分からない。ついでながら、3個の振り子を垂らして、真ん中や、端の振り子だけを揺らせた場合はどうなるのだろうか。どなたかお教えいただければ幸いです。 |
【思ったこと】 _41103(水)[心理]高齢化社会における共生の知恵(4)交流の必然性 10月30日に行われた日本社会心理学会・第48回公開シンポジュウム「高齢化社会における共生の知恵を探る〜加齢(エイジング)をめぐる社会心理学〜」の感想の4回目。 今回は話題提供内容から少し離れて、「異なる文化を持った集団間の交流」についてまず考えてみたいと思う。 仮に、1つの島に、異なる文化を持った3つの民族が生活していたとする。すべての島民が平和に暮らすことを前提とした場合、少なくとも3つの主張が存在しうる。
上記では、「3つの民族」を挙げてみたが、「3つの宗教」や「3つの家族」に置き換えて考えることもできる。もちろん、置き換えることで結論も変わりうるだろう。 さて、高齢者福祉の問題を考えるにあたっても、1.から3.のどの立場をとるかによって方策が変わってくる。もし、世代による価値観の違いを尊重しようとするならば、交流の活性化は必ずしも必要ない。大都市では、そういう不干渉になりがちだ。しかし、いくら不干渉といっても、地震や台風災害に見舞われれば、大都市住民であっても世代間の協力は不可欠となる。これは2.の立場となる。さらに、社会というものは本質的に世代間の交流を前提として成り立つものだと考えれば、2.あるいは3.の立場に立つことになるだろう。 次に、交流の中味について考えてみたい。介護やセラピーも若者と高齢者との交流の場の1つではあるが、この場合は、あくまで、サービスを受ける側と提供する側というように役割が固定されており、本当の意味での対等で双方向の交流とは言い難い。では、お年寄りは常にサービスを受ける側(take)、若者はサービスを提供する側(give)に立たざるを得ないのだろうか。 これについては2つの考え方がある。 まずは、一対一の関係の中でも双方向のサービスが成り立つという考え方。お年寄りに子守や留守番をお願いしたり、昔の出来事を語ってもらうというのは、お年寄り側からのサービス提供の一例となる。 もう1つの考え方は、人間はみな年を取るのだから、いつかはサービスを受ける側に回り、次の世代からサービスを受けることになる。いっぽう、いま一方的に介護サービスを受けているように見えるお年寄りも、かつて若い頃には、もう1つ上の世代を助けたり、また今の若者の子育てで苦労してきた。つまり、生身の二者間におけるサービスは一方通行的であっても、何十年にもわたる時間のスパンで考えれば結局、「give and take」で相殺されるという考え方である。 前者は、クリンなどに見られるコミュニティ通貨、後者は、「将来に備えて、元気なときにサービスをして点数を貯め、寝たきりになった時に点数を使って、介護をしてもらおう」というような時間預託の考え方がある。 以上、今回のシンポと直接関係ない話題をいろいろ取り上げてきた。11月1日の日記で取り上げたように、これらの問題は、究極的には、共生とは何かと問題と関係してくる。「共生」や「交流」は望ましいものであり活性化しなければならないという前提で出発してしまうのはやはり危険である。 |