じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 大学構内で見つけたヒメオドリコソウ。


3月9日(水)

【思ったこと】
_50309(水)[教育]大学コンソーシアム京都 「評価される大学教育」(5)GPA導入/あまり期待しなければ満足度は高い

 3月5日・6日に行われた

●大学コンソーシアム京都 第10回FDフォーラム 「評価される大学教育」

の感想の5回目。今回は

●『誰のための評価?』

というシンポのうち、
  • 同志社大学教育開発センター副所長・文学部教授  山田礼子氏
  • 大阪市立大学・大学教育研究センター副所長・助教授 木野茂氏
の話題提供と、その後の討論に関して感想を述べることにしたい。

 山田氏は「誰のための評価」に関しては「学生のため」という視点を示した上で、評価導入の背景や海外比較について話題を提供された。

 特に興味深かったのは、プライバシー保護が厳格な米国であっても、公共財としての価値があれば個人情報もデータとして活かせるというようなお話であった。具体的には、学生についての評価を他大学と比較する場合など。

 もう1点は、同志社大学で2004年より全学的にGPAを導入したということ。こちらにその説明がある。山田氏によれば、各科目の得点分布などの情報がhttp://compass.doshisha.ac.jp/info/index.htmlの中のGPAインデックスのデータとして学外者にも公開されているというお話であったが、うまく探し出すことができなかった。なお、2004年2月3日の毎日新聞記事によれば、同志社の田端信廣教務部長は「学生には厳しいGPA制度を導入する以上、教員にも説明責任が求められる。評点分布の公表は『楽勝科目』がすぐ分かるとの冗談もあるが、教員もいい加減な評価はできず、自己改革が必要になる」述べておられる。




 木野茂氏の話題提供では、まず、大学改革の必要性はかつて大学紛争当時の学生たちによっても指摘されたことであるが、十分に果たされないままに35年が経過し、昨今、外から改革を迫られる事態になってきたことへの怠慢と責任が指摘された。

 つぎに、学生による評価に関しては、(1)大学が行う組織的な授業評価(要改善授業支援、教員の教育評価資料など)と(2)授業担当者個人が活用するための改善資料という2つの側面があることを指摘された。この点は私の大学でもしばしば議論になるところであるが、現実に、どちらか一方だけの目的のために授業評価アンケートが実施されるということはない。また、一方の目的だけに照らし合わせて有効性を云々すべき問題でもないと考えている。

 このほか、双方向型の授業の実践例を興味深く拝見した。教養教育科目や基礎科目の授業としでは、もっとああいう形が取り入れられてもよいと思った。




 その後のディスカッションの中で参考になった点を2つ。

 まず、昨今、多くの大学で設置されるようになった、「教育開発センター」や「教育研究センター」といったセンター組織の功罪について。一般的には、センターに専任教員を置くことで教育改善が進むと考えられがちであるが、一般教員のボトムアップ型の改善活動が停滞し、センターからのトップダウンの改善に頼りがちになるという弊害もあるという指摘もあった。

 もう1点、学生の満足度に関して、清水建宇氏から

あまり期待しなければ満足度は高い

というご発言があったが、これは全くその通りであろうと思う。勉学意欲の低い学生ばかりにアンケートを実施すれば、それほど高い評価は得られないことはもちろんであるが、楽勝科目である限りはそこそこの「満足度」が得られる。いっぽう、その授業に対する期待が非常に大きければ、説明のわかりにくさ、授業の進め方のまずさなどについては非常に厳しい評価がなされる。

 これは何も授業評価ばかりにあてはまるものではない。例えば、お一人様1万円也の高級料理について感想を求められた場合は、ちょっとでも味付けが悪かったり、素材に不備があれば非常に厳しく評価されることになるだろう。いっぽう、腹の足しになればいいという程度で、立ち食いの食堂を利用するような場合は、料理に対する期待は少ない。もしそういう場で評価を求められても、「まあまあ」程度に落ち着くことになる。

 ということもあり、学生の授業評価を授業改善に活かしていくためには、評定値の高低ばかりに目を奪われるのではなく、評価者としての学生の期待度、勉学意欲をも考慮していく必要がある。

 次回に続く。