じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
サクランボ(彼岸桜)がほぼ満開となった。後ろの花桃も見頃となってきた。 |
【ちょっと思ったこと】
旅行が多いと鮮明な夢を見る 3月は、これまでのところ、京都に2回、東京と大阪に1回というように移動の多い月となった。ふだんは大学構内とその周辺を往復するというだけの生活スタイルをとっている私にとっては、この程度の移動でもかなり激しい環境変化ということになる。 そのせいだろうか、このところ、はっきりと思い出せるような鮮明な夢を見ることが多い。 数日前に見た夢は、入試監督を命じられたが、試験会場となる教室がどうしても見つからない。部屋の番号を探しているうちに25分も遅刻。ところがその途中で、問題用紙の一部を紛失してしまってどうしよう、というとんでもない内容だった。興味深いのは、その建物が高校の校舎であったこと。 28日の朝に見た夢は、食堂内でタバコを吸っている学生が居たので止めなさい注意したがちっとも止めないので、その学生の背中を押して屋外に突き飛ばしたという夢であった。興味深いのは、その食堂が、出身大学の生協食堂であったということだ。 夢のストーリー自体は、どうやら最近のストレスを象徴的に反映している模様だが、舞台が高校の校舎や学生時代に利用していた食堂であったというのは、その場所の近くに旅行した時に蘇った記憶が影響しているものと思われる。 |
【思ったこと】 _50327(日)[教育]京大・第11回大学教育研究フォーラム(5)改善とアカウンタビリティの葛藤/経営のレベルと教育のレベル 表記のフォーラムのうち、3月22日午後に開催された大会企画フォーラム ●大学評価−評価する側の論理− についての感想の続き。 フォーラムでは最後に ●松下佳代氏(京大高等教育研究開発推進センター教授):評価する側の論理、評価される側の論理 という話題提供があった。松下氏は、先日の大学コンソーシアム京都でも、コーディネーターをつとめられた。その時とは論点が少し異なり、今回は
素朴に考えれば、改善の成果をあげることはそのままアカウンタビリティを高めることにつながるように思われるが、実際は、ScyllaとCharybdisの間を航海するようなもので、両立はなかなか難しいというのが第一の論点であった。 ちなみにこのScyllaとCharybdisというのは、ホメロスのオデュッセイア(オデッセイ)に出てくる、スキュラ(またはスキュレー)とカリュブディスのことであり、こちらの説明によれば、 両者とも、イタリア半島とシシリア島間のメッシーナ海峡に潜み、スキュラに近い航路なら、乗組員がガブガブっとやられ、カリュブディスに近い航路なら船ごと飲み込まれたり、宙に飛ばされたり…という具合(大きな船が真ん中を通ると両方から襲われる)。というジレンマを比喩的に表す言葉であり、大学評価では有名な論文 ●フローインスティン(原著1995/翻訳2000):Navigating between Scylla and Charybdis. のタイトルで使われているという。ま、私のような、口の悪い徹底的合理主義者から見れば、ただ単に「両立が難しい」と言えばよく、わざわざ西洋古典など持ち出さなくてもよさそうに思えるが、格調の高さをアピールするにはうってつけかもしれぬ。もっとも、私の所属する文学部の会議でこんな比喩を持ち出すと、専門家からたちまちツッコミを入れられそう。 では、改善とアカウンタビリティは、どういう点で両立困難であるのか。松下氏によれば、
このほか、本来は改善を目的にしているはずの外部評価や第三者評価において、報告書作成が自己目的化してしまい、評価委員への“アカウンタビリティ”優先で、改善に結びつきにくい点や、問題点の率直な指摘は行われにくいという点も指摘された。これには確かに思い当たるところがある。私の大学では昨年秋に、かなり詳細は個人評価報告書提出が求められたが、あれだけ大部となると報告書作成だけで膨大な時間を費やしてしまい、自律的な改善努力のパワーが削がれてしまうという恐れもあるように感じた。中期目標・計画の策定と効果検証についても同じことが言えそうだ。ということもあるのか、記述内容のスリム化が断行される見込みである。 話題提供の後半は「経営のレベルと教育のレベルとの区別」に関する内容であった。民間的発想のマネジメント手法を大学教育に持ち込む場合には、「消費者メタファー」と「製品メタファー」を区別することが大切。なおここでいう「メタファー」というのは、要するに、「大学教育を、一般社会における消費者や製品に例えてみると...」という程度の意味であると理解した。配布レジュメによれば【但し、長谷川のほうで一部改変要約】
もっとも、今述べた2つのメタファーは、どっちを優先すべきかという議論にとどまる問題ではない。これらの発想にとどまっている限りは、大学教育というのは、できあいの教育を購入し、それによって加工されるだけになってしまい、学生を「能動的な創発者」に変えていくことができない。松下氏の御主張は要するに、2つのメタファーを克服し、目標評価システムが、大学教育の相互性・創発性を妨げない条件を示すことにあったと理解した。レジュメの最後を引用させていただくと、 評価と改善の意味:事前に設計されていなかったものが、教育のプロセスの中で、相互的・創発的に生まれてくるからこそ、その内実をとらえるために、評価とそれを受けての改善が意味をもつということになる。この御主張はまことにもっともであり、特に教養教育ではそのことがきわめて大切であると思うが、そうは言っても、「創発性」などというものはそう簡単に検証できるものではない。具体的で実行可能な方策とどう関連づけていくのかが課題であるように思った。 次回に続く。 |