じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 9月6日の夕刻は台風14号接近で、岡山でも最大瞬間風速36メートルを超える強風が吹いた。大学構内の野良猫たちも危険を察知したらしく、プラスチックのケースの中に4匹がすし詰めになって避難。ボス挌の1匹だけはケースの上に留まって、群れを気遣いながら?寝ていた。



9月6日(火)

【ちょっと思ったこと】

台風14号その後

 気象庁発表によれば、大型で強い台風14号は、9月7日午前6時には、松江市の北150キロの海上を、1時間に35キロの速さで、北北東へ進んでいる。当初予想されていた進路より北寄りに進んだため、岡山ではむしろ暴風圏が遠ざかり、6日夕刻に比べると風、雨とも弱くなってきた。6日17時〜6日6時までの観測データは以下の通り(左から順に、観測時刻、気温、雨量、風向、風速、湿度、気圧
  • -----9月6日-----
    17 28.6 0.5 東南東 16 72 994.3
  • 18 28.4 0.0 東南東 17 73 993.0
  • 19 27.7 1.0 東南東 17 78 992.1
  • 20 27.4 1.0 東南東 17 80 991.0
  • 21 26.4 8.0 南東 16 86 990.8
  • 22 26.9 12.0 東南東 16 83 989.7
  • 23 27.4 0.5 東南東 15 80 988.5
  • 24 28.4 0.5 南東 13 73 988.2
    -----9月7日-----
  • 01 28.3 0.0 南東 11 73 988.2
  • 02 27.3 0.0 南東 8 80 989.1
  • 03 27.3 0.5 南南東 6 79 990.3
  • 04 25.4 0.5 西南西 3 89 992.1
  • 05 25.0 1.0 南西 4 91 993.8
  • 06 26.6 0.0 南西 10 73 995.8
 なお、岡山市の72時間合計雨量(7日6時現在)は84.5ミリ。中四国で一番多かったのは徳島市で290.0ミリ。9月5日17時現在で貯水率2.3%と低迷していた早明浦ダムは6日20時までに一気に100%に回復。渇水対策本部は解散、6月15日から続いていた取水制限は全面解除となった。

 台風による強風のため、9月5日夜以降の散歩を中止している。7日朝もまだ外に出ていないので被害状況は分からない。大学構内がどうなっているのか心配である。

【思ったこと】
_50906(火)[一般]小野田寛郎さんの3人分の人生(2)

 「生き抜く」〜小野田寛郎〜83年の人生を自ら語るの感想の2回目。

 昨日の日記でも述べたように、私は長年、小野田さんが

●なぜ、政府を巻き込んだ捜索活動に応じて直ちに姿を現さなかったのか?

ということを疑問に思っていた。

 昨日も述べたように、もともと小野田さんは、日本の降伏を想定済みでフィリピンに派遣された。敗戦後の日本本土には傀儡政権が出来るが、これとは別に大陸に亡命政権が存在し、また、その後のベトナム戦争のようなゲリラ戦が各地で展開されていると思い込んでおられたようだ。小野田さんや、島田伍長、小塚一等兵たちは「日本が盛り返すために自分たちは頑張る」という目標のもとで戦い続けた。この「仮説」は、ひんぱんに離着陸する米軍機(本当は、日本の反撃との戦いではなく、朝鮮戦争やベトナム戦争のために出撃)によって「確信」された。

 しかし、その後、入手したラジオから得たニュースから、世界のどこにも亡命政権はなく、自分たちが命令を発した政府とは全く別物の政府のもとで日本が経済成長をとげていることを次第に察知するようになる。それにも関わらず、小野田さんは、政府を巻き込んだ捜索に対してなかなか姿を現さなかった。この理由は別の所にあったようだ。

 要するに、捜索隊あるいは日本政府は、重大な勘違いをしていたのである。彼らは、旧日本兵は、戦犯として処刑されたり、住民に恨みをかっていてたたき殺されるのが怖くて出てこないのだと思い込んでいた。しかし、小野田さんにしてみれば、自分たちはそんな臆病者ではない。60歳すぎて生きられなくなった時には、一番上等な服を着て敵地に乗り込み、自動小銃で蜂の巣のように撃たれて死ぬという覚悟で戦い続けているのである。捜索活動は、結果的に「弾の一発もマッチ一本もくれない日本政府が何を言うか」と、小野田さんの神経を逆なですることになった。この気持ちを和らげ、投降に導いたのが「あまりにも、あっけらかんとしていた」鈴木紀夫さんであった。なお、ウィキペディアにあるように、小野田さん捜しで成果を上げた鈴木さんは、その後、ヒマラヤで雪男発見に情熱を注ぐも、1986年11月にヒマラヤ・ダウラギリIV峰で38歳で遭難死されたという。





 30年近くもジャングルで戦い続けたという事実から、小野田さんというと、頑固一徹で時代の変化に順応できない方のように思われがちであるが、実は全く正反対。自分ではどうにもできない変化が起こった時には、事実を受け入れた上で過去に引きずられることなく最善の道を探るということに長けていた。

 例えば、27年間行動を共にした1972年に小塚一等兵が戦死した時には
昨日亡くなった仲間に申し訳ないけれど、2人で居た時にすべてが100点満点ではない。 2人で居たときにはそれなりの不都合もあった。2人で居た時のマイナス点と、1人になった時のプラス点を考え、本当はマイナスだが、1人になったから半分になったわけではない、と自分に言い聞かせる。
という形で明日から生きていくための道を探ったという。こういう前向きでポジティブな思考は、その後のブラジル移住でも発揮されたようだ。

 次回に続く。