じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] [今日の写真]  台風14号の影響で9月7日午前中は強い南風が吹いたが、夕刻には風も止み、美しい夕暮れの空を眺めることができた。写真左は、岡大・旧事務局。左の建物の上には月と金星が見えた。写真右は、帰宅後に撮影した月、金星。右側少し離れたところにある星は木星。

 この日は夕食後散歩時にも綺麗に晴れ上がり、東の空には雄大はペガサス四辺形が見えていた。


9月7日(水)

【思ったこと】
_50907(水)[一般]小野田寛郎さんの3人分の人生(3)

 “「生き抜く」〜小野田寛郎〜83年の人生を自ら語る”の感想の最終回。

 今回は私の3番目の疑問

●なぜ、ブラジルに渡ったのか

について考えてみようと思う。もっとも、この疑問を解消するには、2番目の疑問

●なぜ、政府を巻き込んだ捜索活動に応じて直ちに姿を現さなかったのか?

をすっきりとした形で解消しておかなければならない。

 小野田さんの「投降」は、形式上は、直属上司からの「任務解除命令」、またフィリピン政府が戦犯としての訴追を見送ったことによって完了した。しかし、そこには、現地住民、フィリピン政府、さらには、小野田さんにとっての敵国であった米国やアジア近隣諸国政権などへの、さまざまな外交的配慮が働いたものと思われる。そしてこの配慮は今も続いているし、小野田さんもまだ、本音を語れない状況に置かれているように思う。

 小野田さんにとって、帰還時の日本政府は傀儡政権、もしくは傀儡政権から形式上の独立を果たした米国依存政権であったに違いない。それは、小野田さんが当初命令を受けた政府とは別の政府であった。まして、当時は、「日本列島改造」、野党からは「金権腐敗」と言われた田中角栄内閣の時代であった。番組には、小野田さんが田中角栄首相を表敬訪問された時の映像も流れていたが、おそらく心の底では、そういう首相のもとで物質だけ豊かになっていく日本に失望していたに違いない。

 いずれにせよ、帰還後の小野田さんの行動はもっぱら日本政府の意向で決められていたようだ。まずは、検査と静養を理由に3週間の強制入院。退院後も自由に行動できなかった。

 小野田さんのもとには全国から見舞金が寄せられた。しかし小野田さんにしてみれば、生きてかえって来たんだから働ければいい、そういう同情は不要であった。そこで見舞金を靖国神社にそっくり寄附したら今度は軍国主義の復活だと言われる。とにかく、今の時代はこういうことだから言っちゃいけない。と全部衝突してしまう。

 で、けっきょく、敗戦前にはみんなが口にしていたことと同じことを主張すれば喧嘩になる、かといって、国が始めた戦争であるにもかかわらず自分だけ悪者にされ、30年間まちがったことをしてきましたと謝らなければ日本に住めないような状況に追い込まれてしまった。1番目の人生(戦争前)と同様、喧嘩したくない時には離れるのが一番と考え、地球上で日本から一番離れた場所で、一番関係の無い仕事(牛を飼う)を始めようと決意されたようだ。また、これには、

●ヤツはあんなこと言っているが、女のヒモで食っていたんじゃないか。カッコつけて出てきただけ。あんなところで生きられる訳がない。

ということに対して、

●どんなところに放り出されても食っていけるよ。

という証拠を示してやろうという意地もあったようだ。

 社会構成主義的な見方をすれば、小野田さんがもともと主張しようとしたことも、そのことへの批判も絶対的に正しいというものではない。日本が外国の土地で戦争をしたことは明らかに「侵略」ではあるけれども、戦争の評価などというのは結局勝者に都合のいいように決められていくものである。もし日本が戦争に勝っていたとしたら、小野田さんの29年間はおそらく、欧米の植民地支配と戦った英雄的行為として賞賛されていたに違いない。

 ブラジルでの牧場経営に成功した小野田さんは、最近ふたたび、日本とのあいだを往復して、、『小野田自然塾』を主宰するなど多彩な活動を行っておられるという。今後ますますのご活躍とご健康をお祈りして、感想シリーズの最終回とさせていただく。