じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 洋梨の実と花。毎年、実が熟する時期に、一部の枝に白い花を咲かせることがある。


9月27日(火)

【ちょっと思ったこと】

経済効果と経済的損失の違いが分からなくなってきた

 愛知万博(愛・地球博)が終わった。入場者数は、当初の予想1500万人を上回り、最終公式入場者数2204万9544人に達したという。また東海地区への経済効果は民間のシンクタンク試算で約1兆2800億円に上る。

 この「経済効果」ということでいつも疑問に思うことがある。なぜなら、この会場に集まった2200万人は、そこで生産活動をしていたわけではない。仕事を休んで、飲んだり食ったり見物をしていただけであり、また、自宅からの往復の際にはガソリン・電気などのエネルギーを消費しているのである。2200万人がどこかの荒れ地を耕し作物を育てたというならまだしも、単に消費することがどうしてプラスに働くのだろう?

 いっぽう、台風や地震災害ではいつも「経済的損失」ということが言われる。例えば先日のハリケーン「カトリーナ」は1000億ドル(約11兆円)を超えると言われている。もちろん、多くの尊い人命を失ったことは紛れもない損失であるけれども、その後の復興事業は「経済効果」とは呼ばないのだろうか。このほか、朝鮮戦争などは、敗戦後の日本の復興に大きく貢献したという点では「経済効果」と呼ばれるのだろうか。阪神タイガースが優勝した時の祝賀会で行われるビールかけは、ビールが無駄になるという点では経済的損失のようにも見えるし、ビールが売れたという点ではプラスの経済効果であるようにも見える。恥ずかしい話だが、なんだかよく分からなくなってきた。

【思ったこと】
_50927(火)[心理]社会構成主義と心理学の新しいかたち(4)だって、確かに世界はそこにあるじゃないか

 またまたすっかり間が空いてしまったが7月18日の日記の続きとして、社会構成主義についての考えを述べていきたいと思う。

 まず、心理学に関連した刊行された社会構成主義の文献として今回参考にしたのは
【1】Gergen, K. J. (1994): Realities and relationships; Soundings in social construction. Cambridge: Harvard University Press. [ 永田素彦・深尾 誠 訳 (2004):社会構成主義の理論と実践---関係性が現実をつくる, ナカニシヤ出版.]
【2】Gergen, K. J. (1999): An invitation to Social Construction. London: Sage. [ガーゲン(著)東村知子(訳)(2004):あなたへの社会構成主義, ナカニシヤ出版.]
【3】杉万俊夫(2005). 社会構成主義と心理学「心理学論の新しいかたち.[下山晴彦(編)心理学の新しいかたち 第1巻 心理学論の新しいかたち. 誠信書房.]

の3点であった。心理学以外の領域に関連した本もいくつか入手したが、ここでは触れないでおく。このほか

【4】Gergen, K. J. (1994): Toward transformation in social knowledge, 2nd ed. London: Serge. [杉万俊夫・矢守克也・渥美公秀(監訳)(1998):もう一つの社会心理学---社会行動学の転換に向けて, ナカニシヤ出版.]

という本の引用を時々見かけるが、現在は「品切れ・再版未定」となっていて入手できていない。【1】と【2】の原書版は、日数はかなりかかったもののすでに入手できている。

 上記3点より古いが、『American Psychologist』誌に掲載された以下の2論文も大いに参考になった。

【4】Gergen, K. J. (1985). The social constructionist movement in modern psychology. American Psychologist, 40, 266?275.
【5】Guerin, B. (1992).Behavior Analysis and the Social Construction of Knowledge. American Psychologist, 47, 1423-1432.

 さて、社会構成主義の主張を考えるにあたって、まず戸惑うのは「物理的世界」の扱いであろう。よく言われるように社会構成主義は、「現実はすべて社会的に構成される」という捉え方をしている。これは極論すれば、物理的世界は存在しないか、存在していても語ることはできないという主張に繋がる。もっともそこにはいくつかの誤解があるようだ。社会構成主義にもいろいろな立場があるので一概には言えないが、少なくとも、Gergen (上記の【1】や【2】)の立場は、物理的世界を否定するものではないようだ。

 Gergen(1999、上記文献【2】)は、「だって、確かに世界はそこにあるじゃないか」という批判に次のように答えている(翻訳書328-331頁、長谷川による要約)。
  1. 社会構成主義は、「何が存在するのか」「何が事実か」を決めてしまおうとしているのではないのです。何かは、単にそこにあります。ところが、何があるのか、何が客観的な事実なのかを明確に述べようとし始めた瞬間、私たちはある言説の世界、したがってある伝統、生き方、価値観へと入りこんでいきます。
  2. 「目の前に」現実の世界があるかないかを問うことでさえ、心(頭)の内側にある主観的な世界と外側のどこかにある客観的な世界を分けようとする、二元論という西洋の伝統的な形而上学を前提としているのです。
  3. 「事実」についてのある説明を固く信じている時、私たちは、他の可能性に対して自らを閉ざしてしまっています。この意味で、私たちにとって最も明白なものこそが、実は最も限定されたものであるといえます。
  4. あらゆる人間の行為を「物質的なもの」に還元すれば、それらは平板で無味乾燥なものになってしまいます。神秘的で深い意味をもつ言説をすべて捨て去ることを、私たちは心から望んでいるのでしょうか。
  5. 言い換えると、私たちは、「現実」何が事実か、何が本当に起こったことか-----に言及する時、しばしば対話のチャンスを閉ざしているのです。「現実」についての言明は、そこで会話をストップさせ、他の人々が発言する機会やその内容を制限することになります。
  6. 私たちは「事実」や「現実」に訴えて議論を終わらせようとすることに対して、常に慎重でなければならないのです
 杉万(2005、上記文献【3】)が
社会構成主義は、決して、物理的制約を否定しているわけではない。しかし、原理的には、その物理的制約について何か一言でも発するとすれば、それは、すでにして社会的構成の産物、集合流の一コマである。
といっていることからも分かるように、社会構成主義は、物理的世界の存在やその制約を否定しているわけではないが、人間がそのことについて少しでも何かを語り始めた時にはもはや、「事実」や「現実」そのものではなくなる。よって、いっけん疑いの無い、明白であるように見える現象に対しても、それぞれの関わり方やニーズによって多面的な見方を構築することができる。「事実なんだからそれで終わり」というような思考停止をしないことが大切であると言っているように受け止めた。

 もっとも、いくらおしゃべり好きな人間にとっても、「事実」は語られるばかりではない。「語る」こと以前に、我々は、物理的世界に能動的に関わり、そこで一定の行動を形成し、そのことに基づいて「語っている」のである。また、語ることはしないが、人間以外の動物たちも、それぞれのやりかたで物理世界と関わり、適応し、子孫を残しているのである。物理的世界のとらえ方についての社会構成主義の主張は基本的には正しいと思うが、「語る」ことを偏重する以前にまず、そういう「語り」がいかなるプロセスで構築されていくのかを分析していく必要がある。これはまさに、行動分析学のアプローチではないかと思う。なお、上記【1】の文献では行動主義への批判的言及が各所で見受けられたが、そこではかなりの誤解があり、徹底的行動主義の発想が理解されていない点はまことに残念であった。

次回に続く。