じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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[今日の写真]
9月22日の朝焼け(5時45分撮影)。ほんの数分だけのことだが、雲が真っ赤に染まった。


9月21日(木)

【思ったこと】
_60921(木)[心理]日本教育心理学会第48回総会(5)自伝を作ることが礼賛されるからブログを書くのか?


●「学習資本主義」社会と教育改革‐「自ら学ぶ力」の格差問題‐

という特別講演の感想の5回目。「感想」と書いたが、昨日同様に御講演の内容から脱線。今回は、ブログ執筆について考えを述べてみたい。




 9月19日の日記の箇条書きの8番に記したように、御講演の中でK氏は、

●個人化が進む社会では、自伝をつくることが礼賛される。

として、その一例として、ブログが流行していることを挙げられた。「中には実名でブログを書いている人がいます。私は全然やっていないが。」というような御指摘であった(←長谷川の記憶に基づくため、不確か)。

 ここでK氏が、ブログの流行を、「自伝をつくることが礼賛される社会」になっていることの証拠の1つとして挙げられたのか、それとも、半分冗談のつもりで言及されたのか、これは御著書や各種出版物を拝見しないと何とも確認できないのだが、とにかく、Web日記とやらを10年近く執筆している私としては、このまま黙っておくわけにはいかない。




 私がいちばん疑問に思うのは、ブログあるいは日記を執筆、Web公開している人たちの中で、いったい何%が「自伝をつくる」ことを目的にしておられるか、ということだ。これまでも何度か書いたことがあるが、Web日記やブログというのは実に多種多様であって、ひとくくりの社会現象としては到底扱いきれない、というのが私の持論である。

 もちろんある種の人たちにとって、ブログは自伝づくりとして意味をもっているかもしれないし、読者から礼賛されるが大きな励みになっているかもしれない。しかし、少なくとも、私が10年前から参加している日記才人(旧称は「日記猿人)登録日記に限って言えば、「自伝派」はむしろ少数派というか希有であるように見える。

 それと、もし「自伝をつくることが礼賛される」ことがブログ執筆を流行させているというのであれば、長期間執筆する人がもっと増えてもいいはず。しかし、こちらの資料集←日記才人のシステムが、「現在新バージョンのβ版として運営」されるようになってから、残念ながらデータを収集できていない)にも示したように、自伝と言えるほど長期間にわたって執筆を続けている人はきわめて少ない。

 さらに言えば、ブログやWeb日記を執筆することは必ずしも読者から礼賛されるとは限らない。ま、内容にもよるだろうが、しばしば「炎上」と言われるように、反論、さらには誹謗中傷の声が寄せられることのほうが遙かに多いようにも思われる。




 ちなみにこの「じぶん更新日記」であるが、確かに日記才人・プロフィール欄には

じぶんの知識や技能が“更新”された時にその内容を記録し、昨日と違うじぶんを作っていきたいと思う。

などと標榜はしているものの、現実にはそんなことは滅多に書かれていない。妻からも「あなた、“じぶん更新”なんて言っているけれど、結婚した時からちっとも更新されていないじゃないのっ!」と、しょっちゅう言われている。

 このWeb日記を10年近く続けていることのメリットを私なりに考えてみるに、
  • 毎朝、同じ時刻に執筆することによる、規則的な生活習慣の確立(早朝や夕食後の散歩と同じ)。
  • 私自身が興味を持ったことを記し、他の方からそのことについて新たな情報をいただく、といった、ごく軽いレベルの交流。
  • 同じ趣味をもつ人たち(園芸、自然観察、天文、旅行など)との情報の共有、交換。
  • 新しく得た情報や、私自身のオリジナルな見方を公開し、「お気に召せば」という程度に参考にしていただければ幸いという、ごく軽いレベルの期待。
といった点が挙げられるかと思うが、少なくとも、「自伝」という意識はこれっぽっちも無いなあ。備忘録も自伝だと言われればそれまでだけれど、そんなものは「個」の尊重やら「学び」とは関係あるまい。

 ということで、次回に続く。