じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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福岡国際会議場の裏から眺める博多埠頭と博多ポートタワー。 |
【ちょっと思ったこと】
ホテルのサウナで意外な人と同席 出張先の宿としては、なるべく大浴場・サウナつきのホテルを選ぶことにしているのだが、本日夜、サウナを利用していたところ、ちょんまげを結った、並はずれた体格の男性が中に入ってきた。そういえば来週からは大相撲九州場所が始まる、いかにも博多らしい雰囲気があっていいなあ、と思ったが、風呂から上がったところでいくつか疑問が。
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【思ったこと】 _61104(土)[心理]日本心理学会第70回大会(2)人類700万年を心理学する(2)土偶の表情と性別 日本心理学会70回大会の公開シンポ ●人類700万年を心理学する〜考古学と心理学のインタラクション〜 の参加感想の2回目。 2番目は、O大学のM氏による ●考古資料の顔を読む〜先史時代の人形表象研究への新視点〜 という話題提供であった。M氏はまず、マイズン氏の話題提供の中にあった
M氏は、土偶などの人形人工物でも顔の認知に注目しておられる。顔の認知についてはかつて、ダーウィン(1872)が「顔の表情は進化によって生物学的に決定されており、個々の文化で学習されるものではない」と、普遍性を指摘した。要するに、どういう時代、どういう文化であっても、笑う、泣く、怒るといった時の表情はみな共通性があるということだ。この説は、1970年代に入って、動物行動学者のアイルブル=アイベスフェルトやエクマンらによって、再確認されるようになる。人間はまた、動物の顔に対しても、「ラクダは、尊大で決然たる表情」、「ワシやタカは、尊大にそっぽを向いている」というように、「生得的な解発機制」で反応してしまう傾向があるほか、ケータイの顔文字からも、特別の説明抜きで、表情を読み取ることができる。これらはいずれも、表情認知の普遍性を示唆するものと言えよう。 こうした知見に基づき、話題提供の後半では、「現代人は土偶の顔をどう認知するか?」というM氏ご自身の実験研究(協力:K大学K氏)が紹介された。 実験では、考古学専攻でない大学生に、土偶の顔部分のみの線画30枚を30秒ずつ提示。被験者は、それぞれの線画に対して、「怒り」「驚き」「恐怖」「喜び」「嫌悪」「悲しみ」という6項目、その他の印象として「滑らかな」「ごつごつした」「男性的な/女性的な」、「人間らしい/人間らしくない」、「できの悪い/よくできた」、「親しみやすい/親しみにくい」という5項目について5件法による評定を行った。主成分分析に基づく考察によれば、
これらの成果はいずれもたいへん興味深いものであり、縄文人と現代人を繋ぐ「心の架け橋」になるものと期待される。 今回紹介された実験研究で、「怒り」「驚き」「恐怖」「喜び」「嫌悪」「悲しみ」という6項目に関して被験者間で一貫した判断がなされたという点であるが、このことをもって、縄文人と現代人のあいだに表情判断の共通性があるかどうかは依然として不明である。縄文人がどういう制作意図でデフォルメされた顔表現をしたのか、縄文人がその表現をどういう表情として判断していたのかは、残念ながら、いまの時代に実験することはできない(もう少しあとの時代であれば、お祭りでみんなが楽しんでいる様子を描いた絵とか、釈迦が亡くなった時の弟子達の表情というように、文脈から想定される感情と描かれた顔表現を対応させることで、共通性の有無を調べることができるかもしれないが)。 また、被験者間で一貫した判断がなされたからといって、文化の影響が無かったという結論するわけにもいかない。被験者であった大学生が同一の文化的影響を受けていれば、同じような反応をするはずだからである。 仮に「文化の影響が無かった」としても、それが
土偶に対する性別判断はどうか。
もっとも、これは土偶に限ったものでなく、例えば仏像一般や古代の石像などにおいても、身体的特徴が明らかに女性的であるという場合を除けば、「女性には見えない」という判断がなされることが多いのではないかと思ってみたりする。 そもそも性別判断というのは、生物的には、配偶者選びや、母親探しに必要な弁別機能として進化したものであろう。要するに、「男に見えるか、女に見えるか」という二者択一の質問の立て方をすること自体が不自然なのであって、まずは ●(性別を別として)人間に見えるかどうか その上で ●異性(もしくは同性)として意識するか。あるいは、母親らしさを感じるか。 という問いかけをしたほうが妥当ではないかという気もする(この場合、回答者の性別や年齢による違いが大きく出てくるはずであろう)。 次回に続く。 |