じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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元日は夫婦で、近くの龍ノ口八幡宮まで初詣に行った。「近く」といっても写真左側の山頂にある。右側の森は龍ノ口グリーンシャワー公園。後ろの山は、園内の最高峰龍ノ口山(257m)。こちらにも登ってきた。この山をとりまく遊歩道は、体脂肪減らしやトレッキング前の調整にはもってこい。今年も何度か登ることになる。
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【思ったこと】 _70104(木)[心理]新年早々に「あの世」を考える(1) 正月休みに、ひろさちや氏の ●仏教に学ぶ老い方・死に方(新潮社、ISBN4-10-603542-1) を拝読したので、来週からの超繁忙期が始まる前に感想を書いておこうと思う。 ウィキペディアのリンク先によれば、「ひろさちや」氏のご本名は「増原良彦」氏。お生まれは1936年、東京大学で印度哲学、仏教学を学び、気象大学校で教鞭を執る。教員生活の傍ら、「ひろさちや」のペンネームで平易な言葉で多数の入門書を執筆し、一般の人々に仏教を身近な物として再認識させた。ペンネームの由来は、ギリシア語で愛するを意味するPhilo(フィロ)と、サンスクリット語で真理を意味するsatiya(サティヤ)の造語であるという。 この本を読んだのは、高齢者の生き甲斐問題を考える上で、東洋的な考え方をもっと知っておく必要があると常々感じていたためである。正月休みには他にも関連書を数冊読んだが、今回は、この本を中心に感想を述べていくことにしたい。 その前に、私自身の宗教との関わりを簡単に述べておくが、私は子どもの頃から一貫して無神論であって、今も「あの世」の存在などはこれっぽっちも信じていない。もともと「科学少年」であったため、この世で起こる自然現象を「奇跡」や「神の怒り」などで説明しようとすることは徹底的に嫌ってきた。この態度は今も変わっていない。 もっとも、仮に「あの世」が存在していなくても、「あの世」を想定してポジティブに生きようとしている人までを否定するつもりはない。あくまで観光旅行ではあるが、これまで自分の眼で、チベットのゴンパ、イスラム世界、エルサレムの嘆きの壁、ボリビアの教会などを見てきたことがあるが、そこで熱心に祈りを捧げている人々の行動を間違っているとは思わない。 そもそも「生きる」ということはそのプロセスが大切なのであって、最終結果はあまり意味はなさない(→というか、どんな生き方をしようと、人生の最終結果は死以外の何物でもない)。例えば、オリンピックのマラソンで金メダルをとることを目ざして、日々練習に励む人たちがいる。しかし、実際に金メダルを手にすることができる選手は4年に一度、男女各1名のみ。では、金メダルが取れなかった選手の人生は失敗に終わったのかと言えば決してそういうことにはならない。目標をめざして頑張ったプロセス自体が、価値のある生き方ということになるだろう。 同じような見方をすれば、「あの世」があっても無くても、そのこと自体はあまり重要ではないようにも思われる。人生の最終結果としての死に至るプロセスの価値を高める上で「あの世」が有用であるならば(信じられる人は)大いに信じればいいと思う。緩和ケアなどではこの視点は特に重要ではないかと思う。 「宇宙の始まり」という議論もそうだと思うが、この場合の「始まり」というのは、要するに、我々が使用している概念や物理法則が適用できる世界がいつから始まったかという意味にすぎない。それより前に何かがあったのか無かったのかは、それを議論するツールを持たない限りは無意味な問いに過ぎない。というか、そもそも「始まり」とか「ある」、あるいは「存在」とか「原因」などといったう概念自体、この宇宙の内部に属する概念にすぎないのである。同じ理由で、我々は「あの世」を議論するツールを持ち合わせていない、したがって議論しても意味がないというのが私の基本的立場であるが、だからといって現世とのアナロジーで想像の翼を広げることを否定するものではない。 ということで、感想をひとことも述べないうちに時間がきてしまった。次回に続く。 |