じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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1月10日の朝の空。こちらの表にあるように、いまの時期は、一年中で最も日の出が遅い。1月10日と1月31日を比較すると【以下、すべて岡山の時刻】
なお、上記のズレの一因は、いまの時期、太陽の南中時刻がどんどん遅くなっていることにある。1月10日の南中時刻は12時12分であるのに対して、1月31日は12時18分。つまり、日の出や日の入りの時刻ばかりでなく、「ホンモノのお昼」の時刻が遅くなっていくのである(←地球の自転速度は一定だが、公転の軌道が楕円であるなどの理由により、南中時刻から翌日の南中時刻までの時間は24時間ピッタリではなく季節によって変化する)。 |
【思ったこと】 _70110(水)[心理]新年早々に「あの世」を考える(5)自然観・気象観の違いと宗教 ひろさちや氏の ●仏教に学ぶ老い方・死に方(新潮社、ISBN4-10-603542-1) の感想の5回目(実質4回目)。今回は第2章の後半部分について私なりの考えを述べてみたい。 第2章の中ほどで、ひろさちや氏は、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教の自然観が、仏教のそれとは大きく異なっていると論じておられる。要するに前者にとって自然とは闘う相手、仏教にとっては「仏=自然」だというのだ。 それゆえ、一神教的な文化で育った人は、自然の死に対しても《老いとは他者の侵入である》という考えを持つようになる(サルトル自身は無神論)。また、単に「きょうは天気だと言った時、日本語では「天気」=「良い天気」という意味になるが、英語の「weather」は「fair(またはfine、 good」を「weather」の前につけないと「良い天気」や「晴天」という意味にはならないという。これも、気象現象という自然観の違いを反映しているというのが、氏の論点であると理解した。 ここで念のためランダムハウス英語辞典で「weather」を調べてみたが、確かに、2番目の意味として ●【2】{集合的}暴風雨,嵐(あらし), 荒天;外気 という意味が掲げられていた。さらに
しかし、「weathers」には「移り変わり,変遷,浮沈,栄枯盛衰,有為転変」という意味もあるし、日本語でも「お天気屋」という意味がある。ひろさちや氏は、一神教が砂漠、仏教が湿潤気候の自然観を反映していると述べておられるが、このことと、上記のweatherの例は必ずしも対応していないように思える。 そう言えば、昨年6月18日の日記で、世界各地域における季節の分け方についてちょっとだけ取り上げたことがあった。緯度の低い地域では「雨季(雨期)」、「乾季(乾期)」というように雨の降り方で季節を分ける。いっぽう、北極に近い高緯度地方は、「白夜」、「極夜」というように光の量で季節を分ける。それ以外の中緯度地方ではもっぱら、気温の変化によって、「春」、「夏」、「秋」、「冬」というように4つの季節に分けることが多いが、日本列島南部では、これにプラスして、梅雨という、雨の降り方を基準にした季節がもう1つ入り「五季」として扱ったほうがよいという説もあると聞いた。 いずれにしても、一神教発祥の地である砂漠地域では、日々の天気予報というのはあまり意味をなさない。せいぜい最高気温と最低気温の情報さえあれば十分である。いっぽう日本を含む温帯地域では、天気予報と言えば、まずは雨が降るかどうかの予報が第一となる。それは、自然に生かされていることの象徴ではなく、むしろ、「天気」つまり「まずは降雨、次に気温」によって生活が振り回され、それに適応して生きていかなければならないというのが、「天気」をめぐる論議の本質であるように思う。 「神によって生を与えられた人間が、自然=死と戦う」という考え方と、「死すべき人間を自然が生かしてくれる」という仏教あるいは東洋的な考えがあることは確かだろうが、それが、ひろさちや氏御指摘のように、気候風土と明確に対応させられるかどうかについては、何とも言えないように思う。 このあたりの議論は、
あともう一点、人間の自然観の根本は、キリスト教や仏教よりもっと以前、人間がサルから進化した頃にすでに確立していたという見方もアリだと思う。このことについては、人間・植物関係学会の設立準備会(2000年10月14日の日記参照)の河合雅雄先生の講演や、それより少し前に行われたダイアン・レルフ教授の講演にも耳を傾ける必要がある。ま、今回で取り上げている、ひろさちや氏の御著書はあくまで一般向けの仏教入門書であるから、そこまで詳しく論証しなくても良いであろうとは思うが。 次回に続く。 |