じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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ウメの蕾を見に行ったら、枝に大量のミノムシがくっついていた。ミノの概観やくっつきかたからみてチャミノガであると思われる。1つだけもぎとってミノを開いてみたところ、どろどろした白いゼリーの中に幼虫らしきものがあった。チャミノガの幼虫なのか、寄生バエなのかは不明。チャミノガには寄生しないとは思うが...。
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【思ったこと】 _70118(木)[心理]新年早々に「あの世」を考える(9)五戒の意味/他人に無関心になること ひろさちや氏の ●仏教に学ぶ老い方・死に方(新潮社、ISBN4-10-603542-1) の感想の9回目(実質8回目)。 第4章“「夜逃げ」のすすめ”の終わりの部分で、ひろさちや氏は、在家の信者に与えられている「五戒」について解説しておられた。ちなみに、ウィキペディアでは、 五戒(ごかい)とは、在家の仏教徒として守るべき基本的な五つの戒のこと。自分が守ることを戒といい、他人をして守らせることを律という。とした上で、以下のように解説されている。
いっぽう、ひろさちや氏によれば、仏教には「戒律」という言葉はなく、あるのは「戒」と「律」という別個の言葉だけ。このうち、「戒(シーラ)」は「習慣」という意味であり、悪い習慣(悪戒)も含まれているという。いっぽう「律(ヴィアナ)」は、取り除くとか教育するという意味。集団生活をする僧侶では「戒」という掟と「律」という罰則規定があるが、在家の信者は「戒」のみが適用されるという。ウィキペディアの解説とは若干異なるようだ。 また「五戒」の意味についても、ウィキペディアでは、「○○してはいけない」というように行動禁止形で説明されているのに対して、ひろさちや氏のほうは、「○○しない習慣を身につけよう」というように解釈されている。例えば、「不飲酒戒(ふおんじゅかい)」や、ウィキペディアでは「酒を飲んではいけない」だが、ひろさちや氏の解釈は「酒を飲まない習慣を身につけよう」となっている。 ひろさちや氏が、意図的に「○○してはいけない」を「○○しない習慣を身につけよう」と書き換えたとしたら、これは素晴らしいことだと思う。行動分析的に言えば、「○○してはいけない」というのは、単に行動を禁止しているだけであって、生産的な行動改善とは言い難い。例えば、酒を飲んでストレスを解消しようとするあまり、アルコール依存になった人がいたとする。そういう人にいくら「酒を飲んではいけない」という形で不飲酒戒を説いたところで、根本原因であるストレスを取り除くことにはならない。けっきょくその人は、戒を破って酒を飲み続けるか、もしくは別のストレス解消手段として、ギャンブルにのめり込んでしまうかもしれない。 いっぽう、「不飲酒戒」が「酒を飲まない習慣を身につけよう」であったとすると、酒を禁止するだけでは習慣とは言い難い。習慣をちゃんと形成するためには、ストレスを無くすための有効な対処法を確立し、そのものでセルフコントロールを実践しなければならない。これぞまさに行動分析学の発想だ。 もっとも、ひろさちや氏がそこまで意図して「習慣を身につけよう」と書かれていたのかどうかは定かではない。第四章のそれに続く部分では、 しかし、この五戒は、われわれが完全にそういう習慣を身につけることができないものです。戒を完全に守れません。【116頁】とした上で、五戒はそれを守るために制定されたというより、戒を守ることのできない弱い人間であることを知り、その弱さを仏に懺悔(さんげ)するために設けられたものであると説いておられる。そうして、自分ばかりでなく他人も戒を破らざるを得ない弱い人間であることを知り、その他人の弱さを赦すのが仏教の戒の目的なのだという。ただし、ここでいう「赦す」には、仏教の宗派でもかなりの差違があるように思われた。また、ひろさちや氏ご自身は、「他人に関心を持てば他人を裁いてしまう」という理由から、他人に無関心であったほうがいいと論じておられる。 「他人に無関心であったほうがいい」という御主張は、かなり誤解されそうな気もするが、少なくとも、定年退職後の高齢者にあってはそういう生き方もアリではないかと思う。また、若い人にあっても、あまりにも他人に気を遣いすぎるのはどうかと思う。先日、岡山空港からの帰りにラジオのスイッチを入れたら、たまたま、きらり10代という放送をやっていたが、悩み事の多くは、他人に気を遣いすぎ、それも、思いやりというよりは、「こんなことをしたら他人に嫌われて孤立してしまうのではないか」という不安に基づくものが多いように見受けられた。そういう人たちはもっと他人に無関心であってもいいように思う(→私個人は、他人に無関心すぎて、この歳になってもしょっちゅう周りに迷惑ばかりかけているが)。 次回に続く。 |