【思ったこと】 _70214(水)[心理]今年の卒論(1)
今年の卒論試問は2月14日から15日にかけて、大学院入試の合間に2日間の日程で行われる。
卒論は、テーマの独自性、研究方法・手法の確実な適用、信頼性・確実性のあるデータ収集、結果に基づく適切な考察など多面的に成績評価されるものであるが、ここでは、テーマの選び方や視点について感じたことを、メモ代わりに感想を記しておくことにしたい。
- 自己評価、自己卑下、他者高揚、...
「日本人は相互協調的自己観に基づき、自己を低くする傾向がある」などと言われているが(←北山・,1995)、本当に心の底から「卑下」しているのか、それとも、本音では自惚れていて、外向けに自己評価を表明する時に限って「謙遜」しているのか、このあたりはどうやって見極めるのだろうか。
また、ひとくちに自己評価といって、客観的な数値自体、それについての主観的な評価は異なっており、さらには他者との比較にどの程度の重きを置くかという個体差もあるはず。
例えば、私自身は、20歳台の時に比べると明らかに知力も体力も衰えているが、これは客観的事実であって「過去高揚」をしているわけではない。また、「他人は石ころ」くらいにしか思っていない人にとっては、他者との比較などどうでもよいはず。「自分は自分、他者は他者」という視点から他者との比較に関心を持たない人々が増えているようにも思える。
- 高齢者との好ましいコミュニケーション
大学生等に、祖父母との会話の中で「楽しかった会話」や「楽しくなかった会話」はどういうものであったかを思い出して記述してもらい、さらには、話題、様子、留意点についても回答してもらい、高齢者と若者との円滑なコミュニケーションに必要な要因を探るというような研究があった。
この問題設定自体は意義深いものであり、高齢者福祉施設で生活するお年寄りのサポートにとっても有益な知見が得られるものとは思う。
しかし、そもそも、世代間交流にはどういう意義があるのか。孫と祖父母は単に、差し障りの無いとりとめのない話題で、和気藹々と会話をしていればよいのか? むしろ、普段は全く口をきかない関係であるが、臨終の間際に一言、心に焼き付く言葉を交わしたほうが意義のがあるのではないかという気もする。
(他の話題を優先しているために連載を中断しているところであるが)少し前、ひろさちや氏の御著書に関連して老人の存在意義という話題を取り上げたことがあった。ひろさちや氏によれば、
父母や世間の物差しにもとづいて「世故に長けた智恵」を教える。いっぽう老人は出世間人間であり、世間の物差しを否定した、もう一つの物差し、つまり宗教教育を担う。
というとろこに祖父母の役割があるはずなんだが、うーむ、今回の調査の「楽しかった会話」の中にそういう話題も含まれているのだろうか。
- 高齢者における活動理論と離脱理論
この日記でも何度か取り上げたことがあるが、そもそも我々は、活動理論と離脱理論をしっかり学んだ上で自分に適した理論を選ぶという状況にはない。いろいろな経緯から結果的に、「活動的な生き方」か「離脱的な生き方」かになっているだけである。
この種の調査で気になるのは、何をもって「活動的な生き方」とするのかとういこと。例えば、世間との交流を避けて家に閉じこもっている人は一般には「離脱的な生き方」をしていると評価されてしまうが、家の中で盆栽の世話や、新種の蘭の開発に没頭している人は、非常に活動的であるとも言える。
このほか、能動的な離脱理論は宗教と深く関わっているはず。心理学の研究では宗教を扱うことが避けられているようにも思われるが、仏教的人生観や東洋思想一般を抜きにして「離脱理論」を語ることはできないであろう。
次回に続く。
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