じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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[今日の写真]

 「ヒヤシンス休息所」(水栽培の球根を、花が終わってから地植えしたもの)の2年前との比較。写真上が本年3月15日撮影、写真下は2005年3月日撮影。この場所には新たな球根は追加していないので、同じ球根が毎年花を咲かせていることの証明になる。なお、写真の上と下の色合いが違っているのは、使用したデジカメの違い、フィルター機能設定の違いによる。写真上のほうは「曇天用フィルター」、写真下はたぶん「フィルター・オート」だったと思う。


3月17日(土)

【思ったこと】
_70317(土)[心理]第一回構造構成主義シンポジウム(7)池田清彦氏、竹田青嗣氏、西條剛央氏による鼎談(2)うるさい日本のマイノリティ/言葉の問題

 3月11日に早稲田大学で開催された

第一回構造構成主義シンポジウム:わかりあうための思想をわかちあうためのシンポジウム

の感想の6回目。

 鼎談の中で池田氏は、知人(お友達? 論敵?)の中島義道氏の著作や日頃の行いなどを例に挙げて、「わかりあい」の難しさを説いておられた。なお池田氏は、なぜか、この方のことを一貫して「ぎどう」(正式には「よしみち」)と発音しておられた。

 なお、鼎談終了後の質疑の中でも話題になったが、自分の身の回りの騒音、景観、タバコなどに対する不快の程度には、個々人によって著しい差違がある。「これはうるさい日本の諸悪の根源だ」と言って路上のアンプをぶっ壊したとしても、例えば「ぎどう」氏のような著名な方ならば大目に見られるだろうが、無名人の場合には、器物破損で訴えられるのがオチである。また中には、そういう攻撃的な行動ができず、周囲の騒音に耐えられずに自殺してしまう人もいるかもしれない。そういう問題に哲学はどう応えられるかというような質問も出されたが、そのことについてのシンポジストからの明快な回答はなかったように思う。




 池田氏はまた、科学論などにおける「言葉」の問題について論じておられた。
  • 言葉は、一対多対応であるゆえに曖昧。
  • 言葉は、使い方の中で意味が決まってくる。言葉の意味が最初からあって使い方が決まってくるわけではない。
というようなことを言われたと記憶している(←長谷川のメモによるので不確か)。

 うーむ、このあたりは、言語行動についての行動分析学の視点と全く同じように思えるのだがなあ。このあと西條氏からもソシュールへの言及があったが、どちらの方からもスキナーへの言及が無かったのはまことに残念であった。

 次回に続く。