じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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3月25日の岡山は最高気温が19.1度、午前0時から午後11時まで10度以上を保った(前日午後9時〜当日午前9時の間の最低気温は13.3度)。
この陽気の中で、2輪だけではあったが文学部中庭のソメイヨシノが花を開いた。



3月25日(日)

【思ったこと】
_70325(日)[心理]心理療法におけるエビデンスとナラティヴ(2)サトウタツヤ氏の導入講演

 3月21日に立命館大学衣笠キャンパスで開催された特別公開シンポジウム:

心理療法におけるエビデンスとナラティヴ:招待講演とシンポジウム

の感想の2回目。

 導入講演の中でサトウタツヤ氏は、モダンなるものの特徴として次の点を挙げられた。
  1. 資格社会←世襲制よりはマシ
  2. 専門家−非専門家の非対称的かつ権力的な関係の成立
  3. サービス享受者は主体になれず、サービス提供者の客体として存在するしかない。←例えば、患者は医師の客体として存在。
  4. 一望監視装置(Panopticon)←知能検査や心理学調査はモダンと共犯関係?
 短時間の導入講演という趣旨であったので、それぞれについての詳しい説明は無かったが、一言居士的に感想を述べさせていただくと、

 まず1.に関しては、資格ということと世襲制ということは別の次元の問題であるような気がした。いまの社会では職業選択の自由が与えられているが、実際には、学歴社会、金権社会、実力社会、というように、選択の自由度は、国の体制や経済発展の度合いによっても異なる。また、法律上は選択の自由が保障されていても、資格をとるためにお金がかかる場合は、家業から離れにくくなり、結果的に親から子へ、同一の資格が「世襲」されていくこともありうる(行動分析学会のニューズレターや、こちらの連載参照)。

 「専門家−非専門家の非対称的かつ権力的な関係」というのも、サトウタツヤ氏の「ボトムアップ人間関係論」をまだ拝読していないので、よく分からないところがあった。いまの日本にそのようなタテの関係が種々存在していることは確かだと思うが、それはどちらかと言えば、組織体の内部にとどまるものである。社会全体としてみた限りは、士農工商のような固定的な上下関係はもはや存在しない。例えば、「学校の先生」と「生徒の親である医師」との関係をみた時、父兄懇談会では「先生→医師」という非対称的な関係が存在するいっぽう、その先生が病気になって医師に掛かった時には「医師→先生(=患者)」という逆の関係が生まれる。さらにいずれの場合、ある期間、状況や文脈に依存して生じる関係であって、絶対的固定的なものではない。また、非専門家であるユーザーはいつでも、専門家との関係を解消したり、別の専門家に取り替えたりする権利を有している。

 3.や4.に関しては、スキナーの『科学と人間行動』の視点を再度読み直してみようと考えているところであり、別途、言及することにしたい。




 さて、それではポストモダンはどうか。サトウタツヤ氏は、今回の特別講演者の文献(McLeod, 1997)を引用しつつ、
  1. グローバリゼーション
  2. 省察性
  3. ローカルな知の台頭
を挙げられた。またマッキンタイア(1981)を引用し、自分のことの著者になれたモダンに対して、ポストモダンでは私たちは私たち自身の物語の共著者にすぎない点を指摘された。

 ナラティブというと、サイコセラピーの世界ではポストモダンの騎手のように受け止められがちであるが、機能主義から生まれた行動主義、行動療法も、人間の苦悩・精神症状を人間内部の実体とはみなしておらず、「状況・環境の中の人間」というシステムとして関係を開くという点でポストモダンと繋がりがあるというのが、ご講演の趣旨であると理解した(←あくまで長谷川の受け止め)。

 講演の最後のところでサトウタツヤ氏は、
  • 言語を使うことが強化される文化
  • ノンバーバルなコミュニケーションが強化される文化
を対比し、前者はポストモダンへの憧憬があり、関係性への期待が大きい文化、後者はモダンが達成されたかどうか不明であり主体性の確立も怪しい文化であるという違いがあり、これらを分けて考える必要を指摘された。後者はもちろん日本の文化に関係している。

 サトウタツヤ氏ご自身も同じようなことを述べておられたはずだが、少なくとも日本社会や日本文化の変遷を考えるにあたって、モダン vs ポストモダンという切り口が妥当なのかどうかは甚だ怪しい、というのが私自身の考え。

 次回に続く。