じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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大学教育研究フォーラムの会場となった京大・吉田キャンパスの正門付近(写真上)。私が学生だった頃に比べるとずいぶんとキレイになった。
この近辺の過去の写真は無いものかとアルバムをめくってみたところ、1980年1月18日の大雪の時に撮影した正門前の写真あり(写真下。但し、この時私はすでに大学院DC3回生になっていた)。奥の建物(A号館)は、今はこんな立派な建物に生まれ変わっている。もっとも、当時と全く同じ建物もまだまだたくさん残っていた。 |
【思ったこと】 _70329(金)[心理]心理療法におけるエビデンスとナラティヴ(5)下山晴彦氏の話題提供(1)昔の人々は現代よりも多くの苦しみや悲しみを背負っていたか? 3月21日に立命館大学衣笠キャンパスで開催された特別公開シンポジウム: ●心理療法におけるエビデンスとナラティヴ:招待講演とシンポジウム の感想の5回目。 John McLeod氏(英国アバティ大学教授)の特別講演に続いて、4人の話題提供者によるシンポジウムがあった。
このうち昔の人々(Modern以前)がどうやって苦しみや悲しみを乗り越えたかについては、「集団の中で物語を共有」ということを挙げておられた。 もっとも、昔の人々のほうが今より、苦しみや悲しみが本当に多かったかどうかについては、比較する術もないし、原理的に不可能という気がしないでもない。苦しみや悲しみには、生得的なタイプ(例えば、飢えや病気の苦しみ、離別の悲しみなど)もあれば、ある文化の中で社会的に構成されたタイプもある。食料生産技術や医療技術が未発達の前者のほうが、生得的なタイプの苦しみや悲しみが多かったことは確かだと思うが、それらは「乗り越える」というより「それが当たり前」としてすんなり受け入れられている限りは、心理援助などというものは必ずしも求められない。いっぽう、社会的に構成された苦しみや悲しみは、すんなりと受容できるものとは限らない。だからこそ種々のセラピーが必要とされ、発展してきたのではないかと私は思う。 そう言えば、先日の第一回構造構成主義シンポジウムの中でも、子どもを失った親の気持ちということについての言及があった。衛生環境が整い医療技術が発達した今の時代では、子どもは必ず大人になるのが当たり前と考えられている。それゆえ、事故や災害などで子どもを失った親の悲しみはきわめて大きく、何年何十年経ってもそのショックから立ち直れない場合がある。もちろん、子どもを失った時の悲しみは、どの時代でも変わることはない。しかし、かつては、子どもが大人になるというのは決して「当たり前」ではなく、殆ど奇跡に近いという時代がずっと続いていた。そういう意味では、今の世の中のほうが、子どもを失った時の悲しみを増幅する社会的要因が大であるように思う。 なお、第一回構造構成主義シンポジウムでは、「子どもは大人になる」のが当たり前でなかった時代の人々は、子どもたちを「大人になる前の人」としてではなく、「子どもらしさ」という独自の価値をもった存在として見ていたというような話もあった。その通りだと思う。 ここで少々脱線するが、昔の人々のほうが今より喜びが少なかったかどうかも断定できないと思う。チベットを旅行した時にも思ったことであるが、過酷な生活環境のもとでは、やっとこさ生き延びるということ自体が根源的な喜びとなる。気象異変にも耐えて作物が収穫できたり、家畜がちゃんと育つということはこのうえもない喜びである。ところがモノ余りの現代社会では、そういうことは当然化されてしまって、喜びの対象にはならない。今の時期、子どもが超難関大学に合格して喜ぶ親は居るが、18歳になるまで健やかに育ってきたという根源的な喜びは、健康体が当たり前だと思っている限りは、なかなか表に出てこないものである。 ということで、元の話に戻るが、「昔の人々のほうが今より苦しみや悲しみが多かった」というのは、現代人の勝手な推量にすぎない。心理療法やカウンセリングという職業が先進国で発展してきたのは、社会的に構成される苦しみや悩みが増え、それらは食料生産技術向上や医療技術発展では解決できないから、というのが私の考えである。ま、結論的には、下山氏のお考えとそれほど違いはないように思う。 次回に続く。 |