じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
|
4月6日の日記でもふれたが、この時期、サークルの入部案内の立て看板が大学構内のいたるところに設置されている。サークル活動が活発であること自体は大いに結構だと思うが、花壇や樹木を傷めつけるように取り付ける行為はやめてもらいたいものだ。
写真は、南福利施設(生協・ピーチユニオン)前のサザンカにくくりつけられた看板。植物を愛する私には、サザンカやツツジの痛みがひしひしと伝わってくる。新入部員獲得の競争的環境のもとでは、どうしても、手段を選ばない宣伝合戦が横行しがちである。「どこにも立て看禁止とは書かれていない」とか「他のサークルもやっているから」といった他者依存ではなく、こういう場所に看板を設置することが当該植物や周辺環境にどういう影響を及ぼしているのかということを主体的に判断した上で行動してもらいたいものだ。 |
【思ったこと】 _70409(月)[教育]第13回大学教育研究フォーラム(3)日本の大学は世界の潮流から遅れているという言説 3月27日の13時から17時すぎまでは百周年時計台記念館で特別講演とシンポジウムが開催された(登壇者の御所属・職名は3月27日現在、敬称略)。 尾池総長は挨拶の中で、経済財政諮問会議の議論の中で「日本の大学は世界の潮流から大きく遅れている」という言葉がたびたび使われていることに若干の苦言を呈しておられた。 岡山に戻ってからさっそくネットで関連サイトを検索したところ、例えば、成長力強化のための大学・大学院改革について(有識者議員提出資料)の中には 成長力を強化するには、大学・大学院の改革が極めて重要である。世界中の大学がダイナミックに連携・再編に取り組むなかで、日本の大学は世界の潮流から大きく遅れている。“大講座制”“受験競争”“学閥”等に象徴される大学の戦後レジームを今こそ根絶させ、国際競争力の高い知の拠点づくりを行わねばならない。【アンダーラインは長谷川による】また、大田大臣 経済財政諮問会議後記者会見要旨の中にも、 民間議員からは、日本の大学が世界の潮流からおくれている。研究拠点としても、教育拠点としても、選択と集中が必要であるという発想で、まずイノベーションの拠点としては、研究予算の選択と集中を行うべき。一律配分するのではなくて、評価に基づく配分、これを競争的資金と呼びますが、その比重を高めていくべき。オープンな教育システムの拠点として、大学・大学院グローバル化プランをつくっていくべき。その中で、文系、理系の区分の撤廃、入試日の分散、9月入学の実現と、こういう改革を実現するために、国立大学運営費交付金の配分ルールを改革すべき。それから、私立大学も区分せずに支援のあり方を改革する、等の提言がありました。【アンダーラインは長谷川による】というように、確かに「大きく遅れている」との表現が含まれていた。 確かに、日本の大学のある部分に目を向ければ「大きく遅れている」面があることは事実であろうが、尾池総長ご自身も指摘しておられたように、この言葉自体は、10年以上も前からの使い古された言葉である。その後の大学改革の中でどういう部分が「進んだ」のか、どういう部分は今なお「遅れている」のかを具体的に検証せずに、あたかも当然であるかのごとく固定的に使い続ける風潮があるとすれば問題であると思う。 それと、「アメリカではの守」として揶揄されているが、10数年前からの大学改革の中では、「アメリカではこうなっているから日本もそれに合わせるべきだ」というタイプの主張が未だに後を絶たない。このあたりのことは、
「大きく遅れているから○○すべきだ」という議論だけに振り回されてしまうと、 日本人の英語力は世界の潮流から大きく遅れている。よって、日本語教育を廃止、英語のみを公用語にすべきである。という極論もありうることを指摘しておきたい。 なお、尾池総長も言及しておられたが、日本の大学(少なくとも京都大学)は、アジアや中東地域では先進的・主導的な役割を果たしている。そういうポジティブな面にも目を向けつつ、現時点で何が不足しているのかを見極めなければならない。固定観念や「アメリカではの守」に囚われることなく、現状を精密・冷静に分析した上での提言に期待したい。 次回に続く。 |