じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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文法経グラウンドから眺めるクスノキの新緑と半田山。クスノキは常緑樹だが、新緑の季節になると、前年の葉を落としながら新しい葉に入れ替わる。他の広葉樹よりやや遅い5月下旬のほうが鮮やかな緑色になる。 |
【思ったこと】 _70522(火)[心理]他者の体験の情報的価値(4)映像で伝えられること、伝えられないこと 5月17日の日記の続き。 5月16日の日記にも書いたように、人間以外の動物でも、ある個体の体験が他者にダイレクトに影響を及ぼすということは多々見られる。、例えばサルの群れの中で、ある個体が新奇な食べ物を口にし、それを見ていた別の個体に影響を及ぼすという観察・実験結果は広く知られている。また、生得的なメカニズムに基づいているため任意性は無いが、ミツバチのダンスは、同じ巣の仲間に、蜜のある方向や距離を伝える有用な情報となっている。 この種の現象は、学習の伝播やコミュニケーションの研究対象になるほか、各種の観光地紹介番組や宣伝活動の中でも広く利用されている。後者のケースで興味深いのは、他者の体験をどのような映像で伝えるかということである。 例えば、大自然の美しさを純粋に伝えるという趣旨のTV番組では、登場人物は要らない。ハイビジョン映像でありのままの景色を流せばそれでよい。視聴者は、それを視ることでその場所を訪れたような気分になれるし、その情報を利用して旅行計画を立てることもできる。 これに対して、同じ自然風景でも、ハイキングの様子を伝える番組では、タレントなどの登場人物に、コース周辺で目に触れたこと、くたびれた様子などをリポートさせている。それらの報告にどれだけ普遍性・信頼性があるかは疑問だが、とにかく、誰かの体験が伝えられないと物足りない。 温泉や旅館の料理を紹介する旅番組なども同様。単に、お風呂の外観や、料理の映像を流しただけでは、実感が出てこない。少しお年を召した俳優さんに実際にお風呂に入ってもらったり、料理を食べてもらうことで初めて、その場所を旅行した気分にもなれるし、今後の旅行計画の参考にもなる。ま、実際の撮影場面では、お腹いっぱいのところを無理して、美味しそうに食べるように演じておられるだけなのだろうが...。 余談だが、私は、殆ど自己満足的に旅と自然のアルバムというサイトを開設している。これは上記のタイプ分けで言えば、大部分が「大自然の美しさを純粋に伝える」という趣旨であって、特段の体験談などは載せていない。そのせいもあるのだが、殆どのコンテンツについては、アクセスは皆無に近い。いちばん最近掲載したゴルナーグラート→リッフェルゼー(湖)→リッフェルベルクなどは、この日記のTop画面からリンクしているにもかかわらず、5月23日朝までの合計アクセスはなっなんと7。「7」というのはたぶん私自身がチェックした時にカウントされたものであり、他者には全く伝えられていないのだから、我ながらあきれてしまう。いっぽう、この「アルバムサイト」の中では例外的に、ウユニ塩湖へのアクセスが突出して多く、毎日100前後、多いときには200を超えることもある。この差がどこから来るのか、私にはよく分からない。 少し前に人気を呼んだNHK「プロジェクトX」は、目立たないが苦労を積み重ねてプロジェクトを成功に導いた人たちの体験談を集めたものであったが、あの場合は、ウソやヤラセは無いとしても、演出の成否が感動の大きさを左右していることは間違いない。その基本は、「こういう困難があったのに、個人の力で克服した」という筋書きである(2005年12月29日の日記参照)。 ちなみに、上掲の日記の文末には ハイデガーの門弟であるガダマー(Hans Georg Gadamer)によれば、理解の既存構造とは、先入観や偏見の集合であり、意味は、解釈者のもつ理解の既存構造によって影響されざるをえない。プロジェクトXの作品群もたぶん、視聴者側それぞれの生き様と重ね合わせる形で「理解」されていくことになるのだろう。という言及があった。このあたりのところ、いろいろ本を読んでみたい気持ちはあるのだが、時間がぜんぜんとれない。 次回に続く。 |