じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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大学構内に出現したキノコの第四弾。図鑑で調べた限りではマントカラカサタケではないかと思うが、そのキノコの特徴である「大きなツバがマント状に垂下」というところは確認していない。オオシロカラカサタケの可能性も高い。なお、今年掲載したキノコ(もしくは菌類)の写真は
となっている。他にも10種類ほど出現している。
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【思ったこと】 _70703(火)[一般]殺された人たちの気持ち 久間防衛大臣は、3日、アメリカの原爆投下をめぐるみずからの発言の責任をとりたいとして大臣を辞任した。もとになった発言は6月30日に千葉県柏市の麗沢大学で行われた「我が国の防衛について」と題した講演であり、各種報道でその要旨が伝えられている。私なりにまとめるとその趣旨は
核兵器の使用は許せないし、米国の原爆投下は今でも残念だということが発言の大前提だ。ただ日本が早く戦争を終わらせていれば、こうした悲劇が起こらなかったことも事実で、為政者がいかに賢明な判断をすることが大切かということを強調したかったという釈明もしておられたようだ。 このことについてはいろいろな批判が出されているが、大きく分けると、
しかし私自身が真っ先に感じたのはもう少し別のところにある。それは、「しようがない」と言えるのは、けっきょく、殺されずに済んだ人たちの自分勝手な解釈にすぎないのでは、ということだ。 ま、政治家や軍隊の指揮官のような人は、戦争が起こっても滅多なことでは殺されない。殺されるのは、戦地に送り込まれた兵士たちや善良な民間人ばかりだ。ブッシュ大統領によるイラク攻撃などもそうだと思うが、いくら「イラクの人々にとって結果的によいことをした」などと正当化しようとしたところで、殺されてしまった人たちにとっては、その時点で人生を終了させられてしまったわけで、それが良かったなどということは決してありえない。 話題は全く変わるが、犯罪で殺された人たちにも同じような無念があるはず。しかし、殺されてしまった者はもはや裁判所に出てきて、被告を責めることはできない。裁判所で争われるのは、結局のところ、犯行当時の責任能力か、その後どれだけ反省しているか、更生の可能性はあるのか、といった加害者本位の議論に終始してしまうことになり、殺されてしまった人については「もはや生き返らないのだから、しようがない」とされてしまう。 かつて日本で受け入れられていた「仇討ち」は、『新明解』では ●殺された本人の恨みをはらすために、その関係者が(逃亡した)殺害者を見つけ出し討ち取ること。 と定義されている。ここで重要なことは、仇討ちは「殺された本人の恨みをはらす」ために行われるのであって、関係者自身が犯人を憎んで復讐することではない。赤穂義士などもまさにそうであって、義士たちが吉良上野介本人を憎んでいたかどうかは別問題だ。彼らはあくまで、主君の無念を晴らすために討ち入りという行為に出たのであろう。 現代社会では仇討ちは認められておらず、裁判所ですべてが裁かれることになっている。そのさい、犯行当時の被告人の心理状態は精神鑑定である程度把握できるかもしれないが、殺された者のその時の無念さというのは、けっきょく、その時の文脈から推し量るしか無い。これはかなり不公平なことだと思う。 臨床心理系のシンポでは、たまに犯罪被害者遺族の心情のことが取り上げられるが、遺族はあくまで関係者であって、殺された人自身ではない。私自身は無神論者であるけれども、裁判所で、殺された人たちの魂を呼び出してその心情を聞き、その上で判決を下すという手順がなければ、公正な裁判にはなりえないであろうとは思う。しかし現実には、「殺されてしまった以上は、しようがない」がまかり通っている。 |