じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



11月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る



 11月4日の夕食後と5日の早朝は雲が多くホームズ彗星は見えなかった、06時15分〜18分頃、美しい朝焼けを眺めることができた。朝日が濃い雲にあたってできると思われる黒いスジも出現していた。


11月4日(日)

【思ったこと】
_71104(日)[心理]日本心理学会第71回大会(42) 日本人は集団主義的か?(7)「日本人=集団主義」エピソードへの反証

 高野氏の話題提供から少々脱線するが、杉本良夫氏の「あべこべ日本人論」によく似た事例はいくらでも見つけることができる。「この種のエピソードは、恣意的に選択することで、どのようにも主張ができる」というのはまことにもっともであると思う。もちろんそういうエピソードがある程度の説得力を持つのは、「そう言えばそうだね」と思わせるような内容でなければならない。

 例えば、参道に灯籠や鳥居がいっぱい並んでいる神社があるが、そこにはたいがい、寄進者の名前が大きく刻まれている。また、本殿横には、お金を寄附(奉納)した人たちの名前を記した札が、金額の多い順にランクされていたりする。日本人が完全に集団主義で、個人の名声にこだわらず、純粋に信仰のために寄進するのであれば匿名でもよいのではないかと思うのだが、必ずしもそうではないという事例として挙げることができそうだ。

 また、よく言われる例として、名前の呼び方がある。日本では、「姓→名」の順で呼ぶが、西洋では一般に「名→姓」の順であり、公式の場でもしばしば「名」で呼び合ったりする。このことは、しばしば、「家(=姓)」優先か、「個人」優先かという典型例のように思われているが、順番だけが問題であるなら、中国人も韓国人も「姓→名」の順であり、同じ程度に集団主義でなければならないことになる。

 ちなみに「姓」というのは、集団主義というよりむしろ、家系や氏族を示す意味合いが強い。

 韓国では「同姓同本不婚」という法律があったという。また、モンゴル人の名前について紹介したサイトによれば、
モンゴル人の正式な名前は、姓+父称(父親の名)+名(本人の名)の3つからなっています。ただ、このように決められたのは、ほんの数年前のこと。社会主義時代には、姓はなく、父称+名が用いられていました。モンゴルでは、もともと姓があったそうなのですが、1925年に、氏族をあらわす姓は民族主義的であるという理由で廃止され、かわりに父称が導入されました。

それ以来、父称+名が使われてきたのですが、1999年に姓を復活させることになり、今では、皆、姓をもつようになりました。しかし、長年の習慣のせいか、日常生活の中では、姓はほとんど使われておらず、あいかわらず父称+名が用いられています。
であるという。とにかく、姓が廃止されていた時代と復活した時代で、制度の違いだけで集団主義者と個人主義者の比率が変わるとは思われない。




 2001年1月29日の日記に引用したように、和田秀樹氏の著作の中でも
  • アメリカ人は個人主義。競争好き。
  • 日本人は「和をもって貴しとなす」「すぐに群れをなしたがる」「集団の中で目立つことを好まない」
というステレオタイプへの反例がいくつか挙げられている。
アメリカのほうは放っておけば「みんなと同じ」横並び社会になってしまい、弊害が大きくなるので「他人と競争することが美徳である」という倫理を教え、日本のほうは反対に、そのままでは他人を蹴落とす競争をし始めるので、「和を大切にしなさい」と教えているのではないか。
という部分は確かにあると思う。ま、しかし、そもそも、どっちに転んでも、ステレオタイプな見方で固定するのはよくない。
しょせん、「日本人は○○だ」とか「西欧人は○○だ」という主張は、お互いに反対事例を並べ立てるだけの水掛け論になってしまい、ステレオタイプな見方を、別のステレオタイプな見方に取り替えるだけの繰り返しに終わってしまうように思う。
というのがその時の私の結論であり、いまも考えは変わっていない。

 次回に続く。