じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
アパートのバルコニーから眺める夕日。春分の日以降は、太陽が真西〜北西方向に沈むため、このバルコニーからは見えなくなってしまう。
※この先一週間、最低気温が6℃以上の見込みとなったので、室内の観葉植物を外に移動した。 |
【思ったこと】 _80312(水)[心理]「しなければならないことをする」と「したいことをする」(8)悲観的な見通しを持つこと 昨日に続き、 (2)人間に特有の現象。将来に悲観的な見通しを持つと「好子消失阻止の随伴性」のコントロールを受けやすくなる。 について、考えてみることにしたい。 『新明解』(第六版)では、「悲観」と「悲観的」の意味は次のように記されている。
1月26日の日記にも述べたように、「悲観的な見通しを持つ」には、
このうち1.は、いっぱんにはあまりよろしくない状態であると考えられている。それを解消するためには、
もっとも、努力すべきことが明白であって、それにも関わらずその行動がうまく強化されていない、という場合には、適度に不安を煽ることが有効になる場合がある。例えば、勉強に身が入らない受験生には、入試に失敗したらどれだけツライ浪人生活が待っているのかという適度の緊張をもたらすことが有効であるかもしれない。また、戦争の残虐さをアピールすることは平和運動にとって、交通事故の悲惨さをアピールすることは交通安全運動にとって、それぞれ有効な確立操作になりうる。“ネガティブ”な要因のポジティブな生かし方という一連の研究も、この流れに沿ったものではないかと思う。 いずれにせよ、上記1.に述べたような内容は、好子消失阻止、あるいは嫌子出現阻止の随伴性と密接に関わるといって良いだろう。 なお、1.に述べたような意味での「悲観的な見通しをもつ」ことが、「好子の消失阻止」と「嫌子の出現阻止」のいずれに該当するのかは、出現(消失)なるものが具体的にどのようなものであってどう変化するのか、現状がどう評価されるのかによって変わってくるものと思われる。 次に2.に述べたような意味での「悲観的な見通し」であるが、これは、行動随伴性の違いというよりもむしろ弁別行動に属する議論であるように思う。例えば、車を運転中、前方に大きな岩がころがっていてハンドルを右に切るという行動をとったとする。これは単に、障害物を避けて適切に走行するため、前方の景色を手がかりとして利用していたというだけであって、大きな岩自体は嫌子でもなんでもない。確かに岩にぶつかれば大きな事故になるが、運転者は別段、岩にぶつかったらどうしようという悲観的な見通しを持って、そのことに不安をいだいたうえでハンドルを切るわけではあるまい。確かに「ハンドルを切る」は「したいことをする」行動ではなく、「しなければならないからする」行動には違いないが、このことをいちいち行動随伴性と結びつける必要はない。「したいことをする」のか「しなければならないことをする」という議論は、車を運転することが、趣味としてのドライブなのか、荷物の運搬や通勤といった必要に迫られたものなのか、というレベルで行われるべきであって、個々の運転場面でのハンドルさばき、ブレーキやアクセル操作のレベルであれこれ区別するような性質ものであるとは言い難い。 次回に続く。 |