じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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9月1日の岡山は、最高気温32.5℃の真夏日、最低気温25.4℃の熱帯夜となり、残暑の厳しい一日となった。写真は、夕日に赤く染まる積乱雲。この日は夕刻に雨が降ると予報されていたが結局空振りとなり、木星、アンタレス、アークトゥルスなどが明るく輝いていた。但し、西の空の低い位置には黒い雲がひしめいていて、金星や水星を確認することができなかった。9月2日に西の空がよく晴れれば、真西から10度ほど南よりの低い位置に、月、金星、水星、火星がくっついて見えるはずである。



9月1日(月)



9月初めのサプライズ

 各種報道によれば、福田総理大臣は、9月1日の夜、緊急の記者会見を行い、辞任する意向を表明した。NHKオンラインの過去ログを辿ると、
  • 9月1日 21時11分:福田総理大臣は、1日夜9時半から総理大臣官邸で緊急の記者会見を行うことになりました。記者会見の理由は明らかになっていません。
  • 9月1日 21時32分 :福田総理大臣は、総理大臣を辞任する意向を固め、1日午後9時半から総理大臣官邸で緊急に記者会見することになりました。
  • 9月1日 22時58分 :福田総理大臣は、1日夜、総理大臣官邸で緊急に記者会見し、「新しい布陣のもとで政策の実現をはからなければならないと考え、辞任することを決意した」と述べ、辞任する意向を表明しました。
というように、突然の辞任表明であったことが見て取れる。
 福田首相が年内に辞任し、新総裁のもとで衆院解散・総選挙になることは予想されていたことであったが、内閣改造直後、臨時国会の日程も決まっていた時期にこういう形で辞任表明がなされるとは思ってもみなかった。

 今後の政局はきわめて流動的であるが、このさい自民党は、小泉・構造改革路線を継承する勢力と、そうでない保守勢力で袂を分かち、別々の政策を掲げて総選挙に臨んだほうがスッキリするのではないかと思う。ま、どっちにしても、自民党は、政権あっての自民党であり、野党に成り下がってしまった時には四分五裂するのは必至である。政治家にとって、政権党に所属しているということは、それだけの計り知れない魅力、優位性、利点があるのだ。

【思ったこと】
_80901(月)[教育]コピペ〜「ネットの知」とどう向き合うか〜

 9月1日19時半からのNHKクローズアップ現代で、表記の話題を取り上げていた。

 番組記録サイトにもあるように、最近の学生のリポートでは、ネット記事や論説を出典を明記せずに転載し、あたかも自分の書いた文章であるかのようになりすましているものが散見されるという。もっとも、私の授業では、そういうことをしてもネット検索で簡単に発覚してしまうということを事前に警告してある。また、期末試験は、持ち込み不可の論述式問題を出題しているので、「コピペ」は通用しない。

 番組記録サイトにもあるように、今回は、「コピペは人間の考える力を弱める」という批判の声と、「新たな知の技法」として肯定的に捉えるべきだとの意見の両方の見方が紹介された。

 ゲストの茂木健一郎氏も言っておられたように、コピペは情報収集の段階、自分で文章を書く時にはそこから離れるというのが共通認識ではないかと思う。私自身もだいたい、そういう形で文章を書いている。




 もう少し、私の考えを付け加えさせていただくと、まず、「コピペは人間の考える力を弱める」とか、「コピペがまかり通っているので提出リポートでは成績評価ができない」というのは、ちょっと短絡的な発想であって同意できない。

 ニュース記事や各種データベース、さらに種々の論説などは、いちいち書き写すよりはコピペしたほうが効率的であることは明らか。問題は、コピペした文章について出典を明記せず、自分の書いた文章であるかのように「なりすます」ことにある。いっぽう、ちゃんと出典が明記されている限りは、コピペは大いに結構。但し、引用に必然性が無く(←単なるコピペの羅列)、引用を受けた形でその人独自の考えがきっちりと展開されていなければリポートとしては不合格である。

 このこともあって、私の授業でリポートを課す場合は、必ず「Eメイル・ファイル添付」という形で提出してもらうことにしている。そのほうが、どの部分をコピペしたのかが検索しやすい。

 あくまで推測であるが、「コピペはすべて悪い」などとと言っている教員は、印刷/手書き媒体で提出されたリポートを採点しているのではないだろうか。この場合は、紙に書かれてある文章をネットの検索窓で入力し直さない限りはコピペかどうかを判定することが難しい。




 番組では、『声に出して読みたい日本語』などで知られる齋藤孝氏の読書術も紹介されていた。斎藤氏はコピペは使わず、実物の本を手に取り、三色ボールペンでマークをしながら文章を読み取っていく。線を引いたりマークをつけるという行為は、「身体感覚を取り戻す」ことにつながり、当該の文章に対して、コピペより「深く」関わることができるというお考えのようであった。また、引用をする時にも、コピペや「スキャナ&OCR」ではなく、本からワープロ画面に直接手入力しておられるという。

 確かに、そのようなやり方をすれば、一言一句の言葉の重みが「体感」できるし、それだけ記憶に残りやすいというメリットはあると思う。しかし、ある文章に限らず、対象一般について言えることだが、何かに「深く関わる」というのは必ずしも身体感覚の大きさだけで決まるものではないと思う。例えば、英会話のフレーズの場合、それを声に出して反復練習したり、何度も手書きしたとしてもそれだけでは不十分。そのフレーズをいろいろな場面で使ったり、他のフレーズと組み合わせるという、多対多の連関付けができなければ体得したことにはならない。

 仮にある文章を(手入力ではなくて)コピペしたとしても、その箇所をいろいろなところで引用したり。他のコピペと相互比較できるのであれば、結果的にその文章を深く読んだことになる。ま、文芸作品であれば話は別だろうが、情報源として活用されるべき文章というのは、如何にそれを他と関連づけられるか、それについて如何にオリジナルの見解を表明できるかによって、深く読んだのか、浅く読んだのかが決まってくる。身体的な関与の度合いは二義的なものであると私は思う。