じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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9月4日の岡山は、朝の最低気温は23.2℃と凌ぎやすかったが、日中の最高気温は31.1℃まで上がり、厳しい残暑となった。そんななか、8月下旬の長雨で勢いを取り戻したヒマワリが順調に育っている。但し、花をつけているのは今のところ一輪だけ。写真左は9月4日、写真右は8月27日撮影。




9月4日(木)

【思ったこと】
_80904(木)[一般]自分自身を客観的に見るとどうなるか?

 9月2日の日記で、福田首相が9月1日の退陣表明において「私は自分自身を客観的に見ることはできるんです。」と発言されたことについてはその後も波紋が広がっているようである。

 Googleで「自分自身を客観的に見る」を検索すると9月4日朝7時現在で58700件がヒットするが、その上位には福田首相のご発言関連のニュースやブログがランクされている。もともと、「自分自身を客観的に見ることができるか?」というというのは、自分自身についての省察するさいの根源的な問いかけであるものの、どちらかと言えば地味な話題であった。「あなたと違うんです」と合わせて、今後の流行語になりそうな予感がする。




 では本当に「自分自身を客観的に見る」ことができるだろうか? これに関してもすでに多くの方が考察しておられる。私なりの考えを述べれば、まず、とにかく、
  • 自分自身を主観的に見る
  • 自分自身を客観的に見る
という二者択一の判定は無理だと思うが、両者のいずれに重きを置くかという程度の差によって判断が分かれることはあり得るとは思っている。

 例えば、北京オリンピックに出場した選手が次のロンドン大会を目ざすかどうかを判断するにあたって、とにかく、努力すれば夢が叶うと信じ今一度チャレンジすることに固執する選手と、自身の年齢的・体力的な限界やライバル選手たちの実力と比較した上で引退を表明する選手がおられた場合、前者のほうはどちらかと言えば主観的、後者のほうは客観的な判断をしているというような印象を受ける。

 もっとも、これはスポーツに限らないことだが、自分自身の現状をあまり客観的に捉えすぎてしまうと、

●自分は世界の67億の人間の中の、何の取り柄もない1人にすぎず、大した役にも立たず、80年余りでこの世を去るのみ

というツマラナイ評価に終わってしまう。主観的であっても、また夢が叶えられなかったとしても、何かにチャレンジして思い出をいっぱい作っておいたほうが良いという場合もある。

 余談だが、私の好きなドラマの1つに宇宙大作戦というのがあった(←今でも、NHK・衛星放送でデジタルリマスター版を放送している)。ここに登場するミスター・スポックは、紛れもなく、自分自身を客観的に見ることのできる人であった。しかし、カーク船長不在の時にスポックが指揮を代行すると、しばしば悪い結果をもたらして危機に陥ることがある。それを救うのが、カーク船長の、非論理的、感情的、直感的な判断であった。どうやらアメリカ人は、スポックよりもカーク船長のようなリーダーがお好きなようである。




 それはそれとして、仮に「自分自身を客観的に見る」ことができたとしても、その結論は一義的には決まらないということに留意する必要があるだろう。そもそも、「見る」というのは、何らかのニーズ(要請)があって、何かを満たすことで強化されるような行動である。ビデオカメラを無作為に動かして映像を映し出していてもそれだけでは見るとは言わない。そういう映像が提供している無限に近い諸情報の中から、必要な情報を取捨選択し利用して初めて「見る」ことになるのである。

 私の授業では時たま「2枚の10円玉は同じか違うか」という例を挙げることがある。自動販売機にコインを入れる人にとっては、どの10円玉も同じ。いっぽう、コインの収集家にとっては、発行枚数の少ない10円玉には特別の価値が見出される。要するに、同じか違うかという判断は、ニーズ(要請)によって変わってくるのであり、当然、見るという行動の中味も変わってくるのである。但し、この場合の差違は主観とは異なる。特定のニーズのもとでの見るというプロセス自体はあくまで客観的である。




 客観的に見ることのもう1つの難点は、いくら「百聞は一見にしかず」などと言っても、実際にナマで見た事象が、ある条件のもとで確実に起こる現象なのか、それとも、種々の偶然的要因が重なってその時に1回限りで起こった事象なのかは、判断がつかないということにある。もちろん、「客観的な分析」を進めていけば、どういう条件が揃った時にどのくらいの確率でそれが生じるのかという予測ができるようになる。しかし、それが確率的な判断である限りにおいては、常に予想が外れるというリスクを伴う。例えば、種々の気象情報をもとに「明日は晴れる」という客観的な判断が下されたとしても、実際に出かけたら雨に降られるということはありうるわけだ。決定のプロセスが客観的であるからと言って、それが最善の判断になりうるという保証はない。




 福田首相の退陣表明が仮に「自分自身を客観的に見た」結果であったとしても、それがどういうニーズに基づくものであるのかによって評価は変わってくるだろう。
  • 国民の生活を最善の方向に導くため
  • 自民党政権を維持するため
  • 福田氏個人の人生を最善のものとするため
のいずれにおいても「客観的な判断」は可能であろうが、結論は変わってくるかもしれない。なお、念のため言っておくが、野党などがよく口にする「国民のため」というのもそんなに一義的に決まるものではない。国民全体の幸福とか言ったところで、1億2800万人の全てを一律、同程度に幸福にできるわけがない。どこかを優遇すれば、必ず、相対的に冷遇される人々が出てくる。政策の提言においては、どういうバランスをとるか、目先の人気取りではなくて、中長期的にみてどういう方策をとることがどういう発展に寄与するのかを明確に示す必要がある。