じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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§§ 12月20日朝の岡山は、最低気温は2.7度でそれほど低くなかったものの、無風状態が続いたことから、田んぼや空き地は霜で真っ白になっていた。写真左は農学部の田んぼ。右は昨年の稲の生長の記録写真




12月20日(土)

【思ったこと】
_81220(土)[心理]日本園芸療法学会第1回大会(7)中村桂子氏の基調講演(1)動詞で考える生活世界

 この日は、午前中は5件の発表、昼休みにはポスター発表、午後は2つの基調講演とパネルディスカッションが行われた。なお、私は翌日1コマ目に授業があって当日中に岡山に戻る必要があったため、パネルディスカッションは終了予定時刻より10分ほど早く退席させていただいた。

 午後のセッションではまず、JT生命誌研究館の中村桂子館長から

自然の中にあることの再認識を

という基調講演Iが行われた。

 中村氏は著名な生物学者、遺伝学者であり、たくさんの御著書、編集、訳書、監修があることで知られている。私も何冊か拝読させていただいているが、講演を拝聴するのは今回が初めてであった。

 講演の中でも言及されていたが、肩書きの「JT生命誌研究館」には、「生命誌」と「研究館」という2つの重要なキーワードが含まれている。生物学や生命科学ではなくてなぜ「生命誌」なのかについては当該サイトをご参照いただきたい。なぜ研究所ではなく研究館なのかも、当該サイトでだいたい理解できる。

 ところで、この研究館では、主要なキーワードは「研究する」、「表現する」、「語り合う」、「集う」というようにすべて動詞形で表現されている。この経緯については、こちらに説明がある。一部を引用させていただくと、
その理由は、動詞にすることで、物事をていねいに扱うことができるのではないかと考えたからです。
...【中略】...物事を考える時は、「何」が「どのように」ということが大事です。「何」ということだけを名詞でポンと投げ出すと、それはすでにわかっていることのように受けとめられてしまい、詳細に考えることをせずにすませがちになります。
...【中略】...動詞で考えるということは、別の表現をするなら、日常を対象にすること、生活世界を考えるということだと思っています。
 フッサールが、“自然科学の研究者も含めてこの世界に生きている人間が、実践的と言わず、理論的と言わず、そのすべての問いを向けるのは生活世界にだけなのである。無限に開かれた未知の地平をもつこの世界にだけなのである”と、生活世界こそ知の対象になるものであると語っています。確かにそうなのですが、生活世界に向き合うのは難しいので、つい私たちは、たとえば科学と称して特別の世界だけを理解し、それがすべての理解だと思ってしまいます。それではいけないとフッサールは指摘し、それをしていると学問も人間生活も危機に陥ると言っているわけです。更に彼は、“科学者や教養人は、自然科学という理念の衣(または記号の衣)を「客観的、現実的で真の」自然として生活世界の代理をさせてしまう”と言っています。確かにそうですね。...【後略】
 中村氏の講演内容は全体としては園芸療法に直接関係なさそうにも見えたが、この「動詞で考える」というのは、園芸活動の意味づけを考える上できわめて大切であると思う。

 中村氏はフッサールを引用しておられたが、動詞で考えるというのは結局、行動することを基本にして考えるということであり、私的出来事を研究対象に含め、かつ個体本位で具体的な行動を扱うという点ではスキナーの行動分析学に通じるところがあるように思う。


 次回に続く。