じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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大学構内のケヤキの大木。1月12日の楽天版でも取り上げたが、真冬の、骨格だけの樹木というのは、新緑や紅葉の時期以上に生命力を感じさせてくれるとこがある。 |
【思ったこと】 _90120(火)[心理]「血液型性格判断」が廃れない本当の理由(7)やはり弊害があるのでは? 昨日までの連載で、「血液型性格判断」(ウィキペディアでは血液型性格分類というように「分類」に重点が置かれている)が、いっこうに廃れず、また、特段の新発見があったわけでもないのに流行を繰り返すのはなぜだろうかということについて考察をした。 現時点で私が考えている理由をまとめると、
このうち1.や2.は、もはや心理学とは無関係の現象であって、1月14日の日記にも述べたように、 心理学の専門家が「血液型本はインチキです」と演説するのは、初詣で賑わう神社の鳥居の前で「おみくじには科学的根拠はありません。」と叫んでいるようなもので、全く、お門違いということになる。そんな批判をしているヒマがあったら、もっと有効性の高い自己改善法のプログラムを提唱するべきだ、そうすれば必然的に、血液型本に頼る人は減ってくる、と考えたほうが妥当であろう。というのが、妥当な方向ではないかと考えている。 とはいえ、「血液型」が流行することにはやはり弊害があると思う。 まず、血液型の違いに影響されて、他者にお節介をしたり、偏見をもつ恐れは多分にある。偏見についての警戒レベルは、性、人種、干支、六曜、きょうだい、出身地などと同等であり、常に監視を続け、問題現象に対しては徹底的に批判を加えることが必要である。 血液型喧伝者などは、自分は一切差別も偏見も持っていないと言い張るだろうが、差別や偏見というのは、それを吹聴する人の態度ではなく、それを受ける側の問題として捉えなければならない(これは、セクハラ、パワハラ、アカハラでも同様)。「血液型」によって精神的に苦痛を受けたり実害を被る人が1000人中1人でもあれば、安易な言動は慎むべきであろう。現に、就職や結婚に影響なしとは言い難いし、スポーツ界には深刻な偏見を持った指導者が居るという話もチラホラと聞く(こちらの資料集参照)。 このほか、上記2.では、「血液型性格判断」には、自分の「持ち味」を知り、それを活かして向上につなげたいという潜在的なニーズに応える機能がある。」とは述べてみたが、血液型というのはしょせん、生まれながらにして変わらない特性であるので、固定された4つのパターンの壁を乗り越えて「持ち味」を活かすことができない。結局のところ、個の多様性を否定し、自己の可能性の範囲を狭めてしまうことになるのではないかという問題点も考えられる。 次回に続く。 |