じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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§§  2009年版・岡山大学構内でお花見(27)珍しい桜3種

 大学構内で見られる、比較的珍しい桜3種。一番上はシダレザクラの一種ではないかと思うが正確な品種は不明。京都府立植物園横の加茂川沿いの半木の道で見たベニシダレザクラに似ているようにも思える。なお4月15日の時点では、殆ど花が散ってしまった。

 上から2番目は、時計台前の鬱金桜。昨年の日記にも書いたが、ここ数年、勢いが衰えており、枯れ枝が目立つ。

 一番下は、本部棟前に植えられた六高菊桜。2006年4月25日の写真と比べても、あまり成長していないように見える。以前あった二代目よりも花の色が白っぽい。


4月15日(水)

【思ったこと】
_90415(水)[心理]ヤノマミの番組で、人生最大レベルのカルチャーショックを受ける(2)

 昨日に続いて、

NHKスペシャル ヤノマミ 奥アマゾン 原初の森に生きる

の感想の続き。

 昨日も述べたが、ヤノマミ族(←「ヤノマミ族」というのが一般的な呼称のようだが、「ヤノマミ人」と呼ぶほうが望ましいかもしれない)の人たちの価値観や生死についての考え方は、映像で伝えられた限りでは、現代の日本人の標準的な考え方とはかなり異なっているように見えた。

 ヤノマミ族は、ブラジルとベネズエラにまたがる広大なジャングルに分散して暮らしているという。もちろん私は現地には行ったことはないが、ボリビアのソラタからは、アマゾンに続く平原を眺めることができた。今回の番組は地デジの高画質映像で見たということもあり、かなりの迫力があった。フィクションの世界ではなく、そのすぐ近くで、同じ空気を吸って、ゼンゼン別の生活をしている人々がいるということはまことに衝撃的であり、文化や価値観の多様性が現に存在するということを見せつけられた。

 このことで思ったが、一口に多様性と言っても、集団の間の多様性と個人レベルの多様性は分けて考える必要がある。日本人や西洋人とは明らかに異なる、ヤノマミ族の生活習慣をありのままに受け入れるというのは、集団間の多様性を尊重するという立場である。しかし、ヤノマミ族の集団の中では、個人レベルの多様性が保障されているわけでは必ずしもない。集団で狩りをして食料を調達するという生活をする限りにおいては、個々人で勝手なライフスタイルを構築するわけにはいかない。その点、今の日本は、かなりの程度まで、個人レベルの多様性が尊重されている。それが良いか悪いかは一概には言えない。

 ユダヤ・キリスト教のような一神教の文化圏に住む人々は、ライフスタイルの多様性についてはかなりの程度まで尊重する一方、基本的な倫理観、道徳観については、それを厳格に守り、しかも、他文化の世界にもそれを押しつけようとする傾向があるように思える。ヤノマミ族の生活習慣のかなりの部分はキリスト教の教義に反しており、宣教師たちは何とかしてそれを改めさせようとするであろう(現在は、先住民族保護区内への立ち入りは原則禁止されているそうなので、布教活動は行われていない模様)。しかし、それは余計なお節介というものである。

 では、どのような文化や習慣であっても多様性尊重という名のもとに守られるべきなのだろうか。

 あくまで思いつき程度の考えにすぎないが、まず、それらの文化や習慣を変えるかどうかということは、原則として、集団の内部から主体的に取り組まれるべきものである。外部からの押しつけはゼッタイにいけない。また、その集団においては、改革を進めようという動きを弾圧するべきではない。

 第二に、基本的人権の中でも最も基本的な部分、例えば、奴隷のように強制的な労働を強いられるような状況や、自身の意に反して命を奪われたりするようなことがあれば、これは速やかに改められるべきであろう。

 第三に、いくら多様性尊重と言っても、他の集団に迷惑を及ぼしたりを軋轢を生じるような行為は慎むべきであろう。

 上記の3点は、個人間の多様性にも同じようにあてはめることができる。つまり、個人の価値観や習慣は、原則としてその人自身の手によって変えられるべきものであり、かつ、他者を隷属させたり、他者に迷惑・危害を加えるような行為は、多様性として許容される範囲には含まれないということだ。